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ジャーナリスティックな視野(青木 理)

2018年10月号の文學界に掲載された、平野啓一郎デビュー20周年記念企画「平野啓一郎の世界」。同誌に掲載されたエッセイ・作品論・対談記事を公式サイトでもお届けいたします。

文学と報道、文学とジャーナリズムは、後者のうち映像や音声を媒介手段とするものを除けば、活字によって何事かを伝えようとする点で似たような営みではある。

しかし、拠って立つ基盤は大きく異なる。無限の想像力によって天高く飛翔する文学に対し、報道やジャーナリズムは取材で得た事実に徹底してこだわり、地べたを這いずりまわり、最終的にはそれに唯一依拠する。これはもちろん、どちらが良いとか悪いといった問題ではなく、活字を紡ぎ出すにあたっての基本的な役割や目的、決まりごとの違いにすぎない。

ただ、さらに奥深いところにまで立ち入れば、両者にはやはりどこか通底した面もある――つねづねそう思っていたことを本作『ある男』を読みながら、再確認させられた。

本作の導入部で、作家はこんな独白めいた文章をつづっている。

〈小説家は、意識的・無意識的を問わず、いつもどこかで小説のモデルとなるような人物を捜し求めている。ムルソーのような、ホリー・ゴライトリーのような人が、ある日突然、目の前に現れる僥倖を待ち望んでいるところがある。  モデルとして相応しいのは、その人物が、極めて例外的でありながら、人間の、或いは時代の一種の典型と思われる何かを備えている場合で、フィクションによって、彼または彼女は、象徴の次元にまで醇化されなければならない〉

ああ、そうなのだな、と思った。報道やジャーナリズム――なかでもルポルタージュとかノンフィクションと称される分野のそれに携わる者は、まったく同じような心性で日々を送り、世を眺めている。つまり、極めて例外的で求心力がありながら、人間の、或いは時代や社会の一種の典型と思われる何かを備えている――そんな取材テーマを捜し求めつづけ、ルポルタージュやノンフィクション作品によってそれを象徴の次元まで醇化させられないか――と七転八倒を繰り返している。

そう考えれば、文学全般が決してそうとは限らないだろうが、平野啓一郎氏は極めてジャーナリスティックな作家である。特に本作はその色彩が濃く、人びとが向き合うべき時代と社会の匂いや歪みが作品のいたるところにちりばめられている。震災、在日コリアン、差別、虐殺、ヘイトスピーチ、カウンターデモ、無戸籍者、DV=ドメスティック・バイオレンス、児童虐待、過労死、犯罪被害者と加害者、そして死刑制度……。

これらが時に物語の中にたくみに溶け込み、時にモチーフとして重要な意味を持ちながら、物語は劇的に展開していく。私が取材をしつづけてきたテーマも多いから、まるで報道やジャーナリズムの仕事ではないかと思われるほど生々しく情景が立ちあがってくる場面も少なくない。それは作家があちこちを精力的に這いずりまわりながら、作品のモデルや人間、時代の気配を、懸命に捜し求めていることの証左なのだろう。

しかもそれぞれのテーマに、極めて真っ当に向き合っている。時代と社会の歪みや矛盾に敏感に反応し、ごく自然に弱者やマイノリティの側に寄り添い、国家や権力といったものには懐疑の目を向ける。それは本来、分野を超えた表現者の基本的なたしなみだと私は思っているのだが、おそらくは戦前・戦中もそうだったのと同様、昨今は政権や国家への抵抗者を露骨に罵り、弱者やマイノリティを平然と嘲り、果ては差別や排斥をあおる政治家やメディア関係者が大手を振って跋扈している。それはまた、時代の典型的でもっとも深刻な病でもあると私は強く懸念している。

そのような現在、私たちは同時代の秀でた作家として平野啓一郎氏を得ている僥倖を、もっと深く噛みしめてみる必要があるとあらためて思う。『ある男』のように刺激的な作品を、心の底から楽しみつつ。

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