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平野 啓一郎

あらすじ
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『マチネの終わりに』『ある男』に続く、平野啓一郎の最新作。

『マチネの終わりに』『ある男』に続く、平野啓一郎の最新作。

主人公・朔也は「リアル・アバター」を職業にする29歳の青年。特殊な装置を付けて依頼者の「分身」として外出し、疑似体験を引き受けている。母子家庭で育った朔也は、半年前に事故で最愛の母を亡くした。誰からも仲の良い親子だと見られていたし、母親思いの、心の優しい青年だった。母が存在しない孤独と不安に打ちひしがれた朔也は、意を決して、母のVF(バーチャル・フィギュア)製作を企業に依頼する。
VFの製作を依頼した翌日、朔也は母のアバターとして河津七滝に出かけた日を思い起こしていた。あのとき、雄大な大滝を味わったあと、母はこう切り出したのだ。「お母さん、安楽死の手続きをして来たの。」朔也にとって半ば怒りをも感じさせる驚愕の言葉だった。なぜなのか?――対話を積み重ねても、母の願いは変わらず、朔也は母の安楽死を絶対に認めなかった。そして結局、母は朔也の出張中に、事故死してしまったのだった……。VFの製作をするための“資料“を探す中で、朔也は母の「本心」にたどりつけるのか。そもそも、人間は「本心」を生きられるのか?
AIや仮想現実が発展するなかで、人間の心や死生観にどんな変化が生まれるのか、「人間とは何か」という問いを追究する文学作品。仮想空間での「分人」という要素を加え、平野の提唱する分人主義をさらに深める。

― 著者 ―

平野啓一郎

(小説家)

1975年愛知県蒲郡市生。北九州市出身。京都大学法学部卒。1999年在学中に文芸誌「新潮」に投稿した『日蝕』により第120回芥川賞を受賞。以後、数々の作品を発表し、各国で翻訳紹介されている。2004年には、文化庁の「文化交流使」として一年間、パリに滞在。2008年からは、三島由紀夫文学賞選考委員を務めている。

美術、音楽にも造詣が深く、幅広いジャンルで批評を執筆。2008年から2017年まで東川写真賞の審査員を務めた。また、2009年から2016年まで日本経済新聞の「アートレビュー」欄を担当した。2014年には、国立西洋美術館のゲスト・キュレーターとして「非日常からの呼び声 平野啓一郎が選ぶ西洋美術の名品」展を開催。同年、フランス芸術文化勲章シュヴァリエを受章。また、2016年には、マルタ・アルゲリッチ×広島交響楽団の「平和の夕べ」コンサートに、アニー・デュトワ氏と朗読者として参加した。
著書に、小説『葬送』『滴り落ちる時計たちの波紋』『決壊』(芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞)『ドーン』(ドゥマゴ文学賞受賞)『かたちだけの愛』『空白を満たしなさい』、『透明な迷宮』『マチネの終わりに』(渡辺淳一文学賞受賞)『ある男』を刊行(読売文学賞受賞)、エッセイ・対談集に『私とは何か 「個人」から「分人」へ』『「生命力」の行方~変わりゆく世界と分人主義』『考える葦』『「カッコいい」とは何か』等がある。

平野啓一郎からのメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

インタビュー

人は生きているだけで 非常に尊い存在だ。

― 挿絵画家 ―

菅 実花

(美術作家)

1988年神奈川県生まれ。美術作家。2009年東京藝術大学美術学部絵画科日本画専攻入学。2013年同大学大学院美術研究科先端芸術表現専攻修士課程に進学。現在同大学院同専攻博士後期課程に在学。2016年に第64回東京藝術大学卒業修了制作展で発表した修了作品《The Future Mother》で注目を集める。2018年共著『〈妊婦〉アート論 孕む身体を奪取する』刊行。主な展覧会に個展「The Future Mother」(2016、慶應義塾大学、神奈川)、「黄金町バザール2017」(2017、黄金町site-Aギャラリー、神奈川)、個展「The Silent Woman」(2018、文京区立森鷗外記念館、東京)、個展「The Ghost in the Doll」(2019、原爆の図丸木美術館、埼玉)。千葉県在住。

菅 実花からのメッセージ

私は人工生命の在り方に関心を持って、現代美術の領域で作品を発表してきました。『本心』の主題の中にも自身と通底する問題意識を感じています。連載を通して徐々に展開していく物語からイメージを広げて挿絵に取り組みます。

インタビュー

毎回チャレンジを 繰り返すほうが絶対に おもしろいと思ったんです。

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プロローグ

一度しか見られないものは、貴重だ。
月並みだが、この意見には、大方の人が同意するだろう。
とすると、時間と不可分に生きている人間は、その存在がそのまま、貴重だと言える。なぜなら、生きている限り、人は変化し続け、今のこの瞬間の僕は、次の瞬間にはもう、存在していないのだから。
実際には、たったこれだけのことを言う間にも、僕は同じでない。細胞レヴェルでも、分子レヴェルでも、それは明白だ。
もっと単純に、僕が今、死にかけていると想像したなら?
これだけのことを言う間に、刻々と病状が悪化し、結局、僕は終わりまで言い果せることなく、最後の究極の変化を――つまり死を――迎えてしまうのかもしれない。
たった一行の文章の中でも、人間は変化しながら生きている。
こうした考えに、果たして人は、踏み止まれるのかどうか。――
今日、玄関先で見送った幼い子供の姿は、もう二度と見られない。学校から戻ってきた息子は、朝と似た、しかし、微かに違った存在なのだから。
僕たちは、その違いが随分と蓄積されたあとで、ようやく感づくのが常だ。
本一ページ分のインクの量を、僕たちは決して感じ取ることが出来ない。
しかし、一万冊の本のインクなら、身を以て実感するだろう。
変化の重みには、それと似たところがある。勿論、目を凝らせば、その微々たるインクが、各ページに描き出しているものこそは、刻々たる変化だ。
人間だけではない。生き物も風景も、一瞬ごとに貴重なものを失っては、また、入れ違いに貴重なものになってゆく。
愛は、今日のその、既に違ってしまっている存在を、昨日のそれと同一視して持続する。鈍感さの故に? 誤解の故に? それとも、強さの故に?
時にはそれが、似ても似つかない外観になろうとも、中身になろうとも、或いは、その存在自体が失われようとも。――
それとも、今日の愛もまた、昨日とは同じでなく、明日にはもう失われてしまっているのだろうか?
だからこそ、尊いのだと、あなたは言うだろうか。
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第一章 再生

「――母を作ってほしいんです。」
担当者と向き合って座ると、たった数秒の沈黙に耐えられず、僕の方から、そう口を開いた。
もっと他に言いようがあったのかもしれない。当の僕自身が、言った先から、その不可能な単語の組み合わせに恥じ入り、意気沮喪したのだから。
メールで既に、希望は伝えてあったので、確認程度のつもりだった。しかし僕は、途中で涙ぐんでしまった。たったそれだけのことさえ、言い果せることが出来ずに。
なぜかはわからない。母を亡くして、半年間堪えていた寂しさが、溢れ出してしまったのだろうが、その挙げ句がこれかと、惨めな気持ちがないわけでもなかった。
それに、単純に、おかしかったのだとも思う。――おかしくて泣いて悪い理由があるだろうか?
僕は丁度、二十九歳になったところだった。
僕と母は、どちらかが死ねば、残された方は一人になるという、二人だけの家族だった。
もう母は存在しない。その一事を考えれば考えるほど、僕は、この世界そのものの変質に当惑した。
簡単なことが、色々とわからなくなった。例えば、なぜ法律を守らなければならないのか、とか。……
用心していても、孤独は日々、からだの方々に空いた隙間から、冷たく浸透してきた。僕は慌てて、誰にも覚られないように、その孔を手で塞いだ。
僕たちを知る人は多くはなかったが、誰からも仲の良い親子だと見られていたし、僕は母親思いの、心の優しい青年だという評判だった。
話を簡単にしてしまえば、母の死後、僕がすぐに、VF(ヴァーチャル・フィギュア)を作るという考えに縋ったように見えるだろうが、実際には、少なくとも半年間、新しい生活に適応しようとする、僕なりの努力の時間があった。
それは、知ってほしいことの一つである。
僕は、六月一日生まれで、それが、「朔也(さくや)」という名の由来になっている。「一日」を、古い言葉で「朔」ということを、僕は母から何度となく聞いていた。
母に祝われることのない初めての誕生日から数日を経て、僕は不意に胸に手を当て、言いしれぬ不安に襲われた。
自分では、その都度うまく蓋をしたつもりだったからだの隅々の孔が、結局、開いたままで、僕の内側に孤独のための斑な空虚を作り出していた。僕は、外からの侵入者を警戒するあまり、僕自身が零れ落ち続けていたことにさえ、気づいていなかったのだった。
体が軽くなる、というのは、大抵は何か快さの表現だが、僕はその腐木のような脆い感触に、これはいけない、と初めて自覚し、その解決策を考えた。
それが、僕が今、渋谷の高層ビルの中にいる理由だった。
担当者は、野崎という名の、僕よりも恐らく、一回り年上らしい女性だった。白いブラウスを着ていて、髪を短く切っている。メイクの仕方から、外国生活が長いのではないか、という感じがした。
ここに来る客では、泣き出すことも珍しくはないのか、彼女は、理解に富んだ表情を見せ、僕が落ち着くのを待った。一重まぶたの小さな目が、よくわかりますよ、という風にこちらを見ていたが、観察されている感じもした。誇張でなく、僕は一瞬、彼女が受付用のロボットであることを疑った。
ネットで済むはずの手続きを、わざわざ対面で行うのが、この会社の“人間味溢れる”特徴で、彼女はつまりは、そういう仕事に恵まれる人物のはずだった。
「お母様のVFを製作してほしい、というご依頼ですね。」
「はい。」
「VFについては、おおよそ、ご存じですか?」
「――多分、一般的なことくらいしか。」
「仮想空間の中に、人間を作ります。モデルがいる場合と、まったくの架空の存在の場合と、両方あります。石川様の場合は、いる方、ですね。姿かたちは、本当の人間と、まったく区別がつきません。たとえば、わたしのVFとわたし本人とが、仮想空間で石川様にお会いしても、まず、どちらが本物かは見分けられないと思います。」
「そこまで……ですか?」
「はい。あとでお見せしますが、その点に関しましては、ご信頼下さい。話しかければ、非常に自然に受け答えをしてくれます。――ただ、“心”はありません。会話を統語論的に分析して、最適な返答をするだけです。」
「……それは理解しています。」
「興醒めかもしれませんが、どれほど強調しても、お客様は途中から、必ずVFに“心”を感じ始めます。もちろん、それがVFの理想ですが、その誤解に基づいたクレームが少なからずありますので、最初に確認させていただいてます。」
セールス・トークだろうと、半信半疑だったが、想像すると、喜びと言うより不穏なものを感じた。
僕は端的に言って、欺されたがっている人間だった。そして、彼女の口調は、製品の説明というより、僕自身の治療方針の確認のようだった。
「お母様は生前、VFの製作に同意されてましたか?」
僕は咄嗟に、「はい、」と嘘を吐いた。そんな話は決してしなかったが、本人の同意がないと言うと、製作を拒否されるか、面倒な手続きを求められるのではと思ったからだった。
「他のご家族は同意されてますか?」
「母一人、子一人の母子家庭でしたので。……母の両親は、既に亡くなっています。母の姉――僕の伯母――がいますが、ずっと会ってません。葬式にも来ませんでしたから。」
「承知しました。ご親族の間で、トラブルになることもありますので、一応。――失礼ですが、石川様は、生前のお母様とのご関係は、良好でしたか?」
僕は、最初の涙の印象を打ち消したくて、
「わざわざ嫌な母親の VFを作る人がいるんでしょうか?」
と笑ってみせた。あまり陰気な、不安定な精神の人間と思われると、母のVFも、そんな息子向けの仕様にされるかもしれないと懸念したからだった。
彼女はしかし、意外にも、当然のように頷いた。
「いらっしゃいます。――ただ、理想化しますが。」
「ああ、……そういうことですか。」
「生前から、実際の家族とはまったく違った、理想的なVFの家族を作られる方もいらっしゃいます。これはあまりお薦めしませんが、片思いの相手を作られる方も。石川様の場合は、出来るだけ実物のお母様に似せる、ということでよろしかったでしょうか?」
「本物そっくりにして下さい。」と、僕は彼女の言葉を最後まで聞かずに言った。「本物に近ければ近いほど理想的です。」
彼女は、「かしこまりました。」とだけ言うと、傍らのモニターに目を遣って、聴き取られた会話が、自動的に整理されてゆく具合を確認していた。
たったこれだけのやりとりで、僕は疲労を感じた。彼女に好感を抱いたが、向こうはそうではなかっただろう。ピンと張ったピアノ線のような緊張の上で、期待と警戒とがゴムボールのように跳ねて、胸の裡で、素っ頓狂な音を立てていた。
三十三階で、エレヴェーターを降りた時に見た「株式会社 カンランシャ」というカラフルなロゴのステッカーが、デスクの上にも置かれている。
野心的な、幾らか子供っぽいベンチャー企業の社長がいかにも考えそうな社名。――その由来を聞かされても、私的な思い入れが強すぎて、ほとんど共感できない類いの。……
オフィスは広く、背の高い鉢に植えられた観葉植物が、木製の棚と組み合わされて、空間を機能的に仕切っている。ハンモックも見え、職場と言うより、自由なカフェのような雰囲気だった。
漆喰風の壁は白く、足許には、シロナガスクジラが描かれた幻想的な絨毯が敷かれている。
バッサイアやフィカス、ガジュマルなど、僕でもARを頼らずに名前を言える木が、目立って生い茂っていて、それが初夏の光を心地良く遮っていた。
よく手入れが行き届いていて、枝にも葉にも張りがあり、生気が感じられた。
窓から遠い場所に置かれた鉢まで、ここではどうしてこんなに緑が新鮮なのだろうか。眼の先には、エスキナンサスが吊り下がっている。それは、本物らしかったが、ひょっとすると、何割かは造花の類いが混ざっているのかもしれない。
母は植物を愛していたが、その死後、枯れてしまう葉が増える度に、僕はその正直さに共感を覚えた。母のいなくなった世界で、どうしてその葉脈を力強く張り巡らせる必要があるだろうか。僕は決して、植物に“心”があると信じる類いの人間ではないが、それでも、手持ちの乏しい語彙を漁ると、寂しげだとか、悲しげとかいった言葉ばかりが目についた。
もう、こんなに光の眩しい季節だと言うのに。……
「――石川様は、現在、二十九歳ですね?」
あまり長く窓の方を見ていたせいで、振り返った時、僕は野崎の姿を見失った。
「……そうです、先月が誕生日でした。」
「いつ頃のお母様をご希望ですか? 直近の事故に遭われる前のお母様か、それとも、もっと別の年齢の頃か。」
即答できなかった。迂闊にも、僕はそれを考えたことがなかった。
この半年というもの、僕の脳裡を去来したのは、幼少期に見上げた、まだ四十代半ばになったばかりの若々しい母の笑顔から、一年ほど前に、玉ねぎを切っていて人差し指の爪を削ぎ落としてしまった時の痛々しげな表情まで、一時も同じではなかった。
これから一緒に生活をするとして、いつ頃の、どんな顔の母が理想的なのか?――遺影は、葬儀会社の薦めに従って、時期の異なる五枚ほどの写真を選んで、切り替わるようにしてあった。しかし、VFとなると、そうはいかないのか。
「オプションで、複数の時期を選んでいただくことも出来ます。その分、お手間と費用がかかりますが。お子さんを亡くされた方などは、未来の姿を選ばれることもあります。」
「未来?」
「はい。成人後の姿を、かなり正確に予想できます。」
僕は、どうして正確に予想できたとわかるのだろうかと、流石に訝った。正解は、永遠に失われているというのに。
成長や老化は、なるほど、ある程度、予想がつくかもしれない。しかし、その子がいつか看板に額をぶつけて作る傷のかたちを、どうして予測できるだろうか?
けれども、その未来の子供の姿に救いを感じている遺族もいるのだった。その不出来の指摘は、結局のところ、慎むべきなのだろう。第一、“ユーザー”こそは、そんなことは百も承知のはずだった。
「今日、決めていただかなくても結構です。ゆっくりご検討ください。ただ、複数のヴァージョンを作られても、結局、みなさん、一体に絞っていかれますね。……」
「……そうですか。――ただ、まだ、購入するかどうかを決めてないんです。どの程度、母を再現できるのかを知りたいのですが。」
「精度は、ご提供いただける資料次第です。写真と動画、遺伝子情報、生活環境、各種のライフログ、ご友人や知人、……サンプルとして、弊社で製作した VFに実際に会っていただけると、色々ご理解いただけると思います。」
そう言うと、野崎は立ち上がって僕を別室に誘った。



体験ルームは、意外と平凡な応接室だったが、外部からは遮蔽されていて、壁には闘牛をモティーフにしたピカソのエッチングが飾られていた。かなり古色を帯びていて、しみもある。最近の精巧なレプリカなのか、二十世紀に刷られたものなのか。
ヘッドセットとグローブを装着しても、何も変化はなかった。僕は、これから対面するVFが、AR方式で、現実に添加されるのか、それともヘッドセット越しに見ている部屋が、既に仮想的に再現された応接室なのか、本当に区別できなかった。
黒いレザーのソファの前には、コーヒーが置かれている。座って、それを飲めば、わかることだろうが。……
野崎が、二人を連れだって戻って来た。
一人は、薄いピンクの半袖シャツを着た、四十前後の痩身の男性で、よく日焼けしているが、僕とは違い、長い休暇中に、ゆっくり時間をかけて焼いたらしい肌艶だった。
もう一人は、紺のスーツを着て、眼鏡をかけた白髪交じりの小柄な男性だった。
「初めまして、代表の柏原です。」
日焼けした男の方が、白眼よりも更に白い歯を覗かせて腕を伸ばした。
僕は握手に応じたが、ウィンド・サーフィンでもやっているんだろうか、といった眩しい想像を掻き立てられた。例の「カンランシャ」という社名を考えたのは、この人だろう。
続けて、隣の男性を紹介された。
「弊社でお手伝いいただいている中尾さんです。」
「中尾です。どうぞ、よろしく。暑いですね、今日は。――お手伝いと言っても、ただここでお話しをさせていただくだけなのですが。」
彼は、額に皺を寄せて、柔和に破顔した。落ち着いた物腰だったが、こちらの人間性を見ているような、微かな圧力を感じさせる目だった。
「お手伝い」というのがよくわからなかったが、僕と同じVFの製作依頼者なのだろうかと考えた。
同様に握手を求められたので、応じかけたが、その刹那に、ハッとして手を引っ込めた。実際には、それも間に合わず、僕は彼に触れ、しかも、その感触はなかったのだった。
「私は、VFなんです。実は四年前に、川で溺れて亡くなっています。私は、娘がこの会社に依頼して、製作してくれたんです。」
僕は、口を半開きにして、物も言えずに立っていた。“本物そっくり”というのは、CGでも何でも、今では珍しくないが、中尾と名乗るこのVFは、何かが突き抜けていた。それが、僕の認知システムのどこを攻略したのかは、わからなかったが。
誇張なしに、僕には彼が、本当に生きている人間にしか見えなかった。柏原と見比べても、質感にはまったく差異が感じられなかった。
僕は、半ば救いを求めるように野崎を振り返った。彼女は特に、「どうです!」と誇らしげな様子を見せるわけでもなく、
「気になることがあれば、何でも質問してみてください。」
とやさしく勧めた。恐らく、彼女がこのVFと接する態度も、これを人間らしく見せている一因だろう。
彼の額に、うっすらと汗が滲んでいるのに気がついて、僕は驚いた。僕の眼差しを待っていたのか、それは、目の前で、静かにしずくになって垂れ、こめかみの辺りに滲んで消えた。そして、そのベタつくような光沢を、中尾は痒そうに、二三度、掻いた。
僕は、反射的に目を逸らした。彼の足許には、僕たちと同じ角度で、同じ長さの影まであった。
「ちゃんと、足は生えてますよ。」と中尾は愉快そうに笑って、「そんな、幽霊を見るみたいな顔をしないで下さい。」と、腹の底で響いているような篦太い声で言った。
「すみません、……あんまりリアルなので。」
「中尾さんは、実は収入もあるんですよ。」と野崎が言った。
「収入?」
「これが仕事なんです。」と中尾が自ら引き取った。「ここでこうして、自分自身をサンプルに、新しいお客様にVFの説明をしているんです。それに、データの提供も。お金を受け取るのは、家内と大学生の一人娘ですがね。……かわいそうなことをしましたから、まあ、親として出来るせめてもの孝行ですよ。」
僕がその目に認めた憂いの色は、さすがに気のせいだっただろうか?
しかし彼は、「親として出来るせめてもの孝行」と言うだけでなく、その手前で、「まあ、」と一呼吸置いてみせたのだった。
僕は、自分の方こそ、出来の悪いVFにでもなったかのように、まったく意味が不明瞭な面持ちで立っていたと思う。「話しかければ、ちゃんと受け答えをしてくれます。ただ、“心”はありません。」という、野崎の最初の説明が脳裡を過った。
彼はつまり人工知能で、その言葉のすべては、一般的な振る舞いに加えて、彼の生前のデータと、ここでの何十人だか、何百人だかの新規顧客との会話の学習の成果だった。
ただ、「尤もらしい」ことを言っているに過ぎず、実際、こうしたやりとりは、大体いつも、似たり寄ったりなのだろう。情緒的な内容を含んでいるが、銀行の受付機械と、実際はそう大して違わないのではないか。
第一、それを言うなら、柏原や野崎の言動こそ、僕が誰であろうと、そう大して変わらない、パターン通りの内容だった。彼らとて、一々、僕の心を読み取り、何かを感じ取りながら話をしているわけではなく、「統語論的に」応対しているだけだろう。
「お母様を亡くされたと伺ってます。きっと、あなたのお母様も、私と同じように、VFとして立派に再生しますよ。娘はね、私と再会した時、本当に涙を流して喜んでくれましたから。もちろん、私も泣きましたよ。――心から。」
僕は、中尾の姿に母を重ねようとした。しかしそれは、どう努力しても止めることの出来ない、破れやすい、儚い幻影だった。それでも、母とまた、こんな風に会話を交わす日が来るという期待は、僕の胸を苦しみとしか言いようのない熱で満たした。
母ではない。勿論、断じて母ではなく、そのニセモノに過ぎなかった。母は――母の心は――、永遠に失われてしまっている。それでも、たとえこんな玩具相手でも、この僕の心は蘇るのではあるまいか?
わかった上で欺されることを、やはり欺されると言うのだろうか? もしそれで幸福になれるなら? 勿論、僕は絶対的な幸福など、夢見てはいない。ただ、現状よりも、相対的に幸福でさえあるなら、残りの人生を、歯を喰い縛ってでも欺されて過ごしかねなかった。……
中尾は、何も言わない僕の表情を読み取ろうと凝視していた。そういう時間は、少し困惑した顔つきで待たせるように設定してあるらしかった。
ほど経て、どういうわけか、応接室の入口から、また、野崎が入ってきた。
僕は、馬鹿正直に驚いて、傍らを振り向いた。そこには、先ほどと変わらず、もう一人の野崎が立っていた。
僕は、二人を交互に眺め、一種の羞恥心とともに、あとから入ってきた彼女に、
「こういうやり方は、感心しません。」
と、感情を抑えながら不服を言った。
彼女は、今日初めて見せる動揺した様子で、
「大変、失礼しました。」
と神妙に頭を下げた。
ヘッドセットを外すと、しかし、そこには誰もいなかった。
部屋のドアも、閉ざされたままである。
僕は、頬が紅潮し、首許に汗が噴き出すのを感じた。
もう一度、傍らを振り向くと、柏原と野崎とが、少し心配そうな顔で立っていた。中尾は勿論、いない。部屋の中には、僕を含めて三人だけがいた。
「申し訳ございません。最初にご説明した通り、わたしのVFにも会っていただこうかと、今、部屋に呼んだのですが。」
「……そうですか。あとから入ってきた方が、本物だと思って、……よくできてますね、確かに。」
「勤務用のわたしに調整してありますので、プライヴェートな場所でのわたしには、似てないのですが。」
彼女の私生活も、幾分かは知っているらしい柏原は、爽快に笑うと、
「何かわからないことがあれば、何でも彼女に聞いて下さい。この本物の野崎の方に。」
と言い残して、もう一度握手をし、忙しそうに部屋をあとにした。
その後、ソファに座って、面会の続きをしたが、僕はほとんど上の空で、話の半分程度しか頭に入らなかった。
僕の中に残った、人と会ったという余韻は、実のところ、柏原よりも、遙かに中尾の方が強かった。そして、記憶の中で、二人の野崎は、最早、区別を持たなかった。
「……実際に、VFを製作するとなりますと、完成品をお渡しする、というのではなく、β版を石川様ご自身に完成していただく必要があります。機械学習ですから、出来るだけ長く、頻繁にβ版と会話を交わしていただくことで、少しずつ違和感が修正されていきます。」
「シラケませんか、その間に?」
僕は、気を取り直して訊ねた。
「いえ、逆です。みなさん、感動されます。ご家族のVFを望まれる方は、ご病気で意思疎通が出来なくなったり、死別されたりというケイスが多いですから。少しずつ、以前同様のコミュニケーションが回復してゆくことが、大きな喜びになります。――それは、本当に。ご病気が治ったり、生き返ったりした感じがするようです。ちょっと違うと感じたところは、こちらから助けてあげて、元に戻してあげようと努力するんです。個人的には、この仕事をしていて、わたしが一番、感動するのもその時です。」
「……。」
「生身の人間も、複雑ですけど、心だって、結局は物理的な仕組みですから。VFは、コミュニケーションの中では、限りなくご本人そのものです。」
「――心はないけれども、ですよね?」
「はい、そう申し上げましたが、感じるんです、やっぱり。心って何なんでしょう?」
彼女は、これまでになく、本音を語っている風の口調で言った。それは、生身の人間らしく、まったく矛盾していた。
結局、僕は、その日のうちに母のVF製作を正式に依頼した。
見積価格として、三百万円という額が提示された。以前の僕には、とても手が出なかったが、母が残してくれた生命保険から、どうにか捻出するつもりだった。

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