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「Me Too」あるいは、「『私』かもしれない」(中島京子)

2018年10月号の文學界に掲載された、平野啓一郎デビュー20周年記念企画「平野啓一郎の世界」。同誌に掲載されたエッセイ・作品論・対談記事を公式サイトでもお届けいたします。

その言葉が世界を席巻したのは、2017年10月以降のことで、ハリウッドのプロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインによるセクハラや暴行を、ほかならぬハリウッドの女優たちが次々告発し始め、アリッサ・ミラノがツイッターで「過去に性犯罪の被害者になったことのある人は#Me Tooのハッシュタグをつけて体験を語って」と呼びかけたことがきっかけになった。

「Me Too=私も」は、とても力強い言葉だ。

「私もつらかった」という魂の告白であると同時に、「私もあなたの痛みを知っている」という連帯を示す言葉でもあるからだ。

ところでこの力強い「私も」という言葉は、ほんとうに自らが誰かと同じ体験をしない限り発することのできない言葉なのだろうか。いや、もちろん、遭ってもいない性被害をでっち上げて誰かを告発しようという意味ではない。

自民党の杉田水脈議員が、LGBT支援に税金を使うべきではない、なぜなら「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がない」と主張した。この発言は様々な誤解と偏見に基づいた、およそヘイトスピーチに近いものだと思われるが、ともあれ大意として杉田氏は、セクシャルマイノリティーは国家にとって有益ではない、と言ったのである。

これに対して、乙武洋匡氏がツイッターでこう反論した。「国家にとってどれだけ有益かという観点から優劣がつけられる社会になれば、次に排除されるのは『私』かもしれない」。

この『私』は、乙武氏自身を指すわけではないと、彼は注釈をつけなければならなかった。なぜなら「乙武さんには生産性があるので大丈夫です」というとんちんかんなツイートが相次いだからだ。

乙武氏は、想像してみようと提言したのである。  このツイートは、反ナチ運動を指導したマルティン・ニーメラーを思い出させる。「ナチスが〇〇を攻撃したとき、私は声を上げなかった。私は〇〇ではなかったから」という形のフレーズがリフレインした後で、「彼らが私を攻撃したとき、私のために声を上げる者は、誰一人残っていなかった」と続く、あの有名な詩を。

当事者が、「私」の体験に基づいて声を上げることには、たしかに強い力がある。  けれども、「私」が他者を想像すること、「私」があなたの傷を想像すること、そしてその痛みを感じとることには、同じとは言わないが、別の、しかしやはり強さがある。そして、その強さなしには、何かが本当に動くことはないのではないかと思うことがある。

『ある男』は、読んでいるうちに、X(様々な呼び名を持つが、小説内でこのように呼ばれることもある)という男と別の男の人生が交錯し、さらにまた別の男が交じってきて、オーヴァーラップし、その男をその男たらしめた違う男の存在が浮き彫りになり、その男と別の男の歴史が語られ、紡がれ、織りなされる、というような小説である。

もう少し具体的に書くと、よんどころない(少なくとも本人にとっては、よんどころなく思われる)事情で、他人の記憶を自分の記憶として生きることを選択する「男」たちが登場する。主人公は、そのような選択に至るわけではないけれども、異様なほどののめり込み方で、Xの数奇な人生を追い続ける。まるで、自分がその男の人生を生きてしまおうと思い詰めているかのような執拗さで。

主人公じたいは、中年の危機を迎えている凡庸な男だ。彼が内面に抱える葛藤はけっして小さいものではなく、そしてあくまで彼個人のものだが、誰しもその人なりの葛藤を抱えつつ生きるという意味では、普遍性を持った人物と言えるだろう。  物語の途中で、主人公はふと出来心で、別の男に成りすます。それは小説全体が扱う交換された人生の物語に比べると、ささいな悪戯のようなものだが、深い余韻を残す。その悪戯めいた行為の後で、彼はさらにXの人生の深みにはまり込んでいく。主人公自身も大きな葛藤を抱えているのだが、その葛藤から逃避するように見えて、むしろ葛藤の本質に切りこんでいくとも言えるのだ。彼が妻に心情を吐露するシーンがある。

「自分でもわからない。とにかく、他人の人生を通じて、間接的になら、自分の人生に触れられるんだ。考えなきゃいけないことも考えられる。けど、直接は無理なんだよ。体が拒否してしまう。だから、小説でも読んでるみたいだって言ったんだ。みんな、自分の苦悩をただ自分だけでは処理できないだろう? 誰か、心情を仮託する他人を求めてる」

彼はXの秘密に辿り着き、Xの抱え込んだ大きすぎるほどの傷と葛藤を想像し、それをほとんど我がものとする。胸に抱いた傷の耐えがたい「痛み」のためにXが号泣したというエピソードを、繰り返し繰り返し想像する。そして最終的には「その痛みを、まるで経験したかのように知っている」と感じられる境地に至るのだ。それは、個人の実体験と比しても、けっして弱々しい体験ではないに違いない。体験の力はたしかに大きい。でも、想像の力は、それとは別の大きさがあって、別の強度がある。想像の力は人を変えるし、救う。

小説にできる最良の仕事の一つは、他者を想像させることだろう。

小説を書くことで作者自身が他者を想像せざるを得ず、小説を読むことで読者はやはり他者を想像することになる。 『ある男』は、読者が一人ではおよそ辿り着かないような地点まで、読者の想像力を引っ張って行ってくれる。読み終えた後に残る、何かを、誰かを、「知っている」という感覚は、まさに小説こそが与えてくれるものだ。いまや、私の中にも、Xの、そしてそのほかの人物たちの傷の痛みが、胸の奥で疼くように感じられる。

小説の冒頭ではまだ幼い少年が、ティーンエイジャーになって出会うものの存在は、重いテーマの物語に光を投げかけている。

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