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空白に存在の原点を問う(野間俊一)

2018年10月号の文學界に掲載された、平野啓一郎デビュー20周年記念企画「平野啓一郎の世界」。同誌に掲載されたエッセイ・作品論・対談記事を公式サイトでもお届けいたします。

「なぜ、分人なのか?――それは、人を自殺させないためです」

平野啓一郎氏は『空白を満たしなさい』のなかで、自殺復生者の徹生に対して支援者池端にこう語らせています。幾分ナイーブな表現に読者は一瞬たじろぎますが、平野氏のきっぱりとした筆調には疑念を抱かせない力があります。自分を無二の〈個人(individual)〉と捉えるとそのあるべき像に圧倒されるが、実際は複数の〈分人(dividual)〉を生きているはずだというのが、平野氏の説く「分人主義」です。

分人の姿は精神疾患である多重人格(解離性同一性障害)を連想させますが、多重人格では個々の人格の主体としての〈私〉が解離され分断されてしまう点において、あくまで〈私〉の同一性が保たれている分人主義とは異なります。分断された複数の〈私〉がそれぞれの人物像をもつ多重人格こそが、戯画的に個人主義に呪縛されているのです。

そのように考えると、いくつかの精神疾患は「分人化不全」として理解できそうです。近代的自我としての〈私〉の成立と現代の精神疾患の構造とは、なんらかの関係があるのかもしれません。

平野作品にはしばしば、『空白~』の佐伯、『ドーン』のメルクビーンプ星人など、〈私〉を死へと誘う〈影〉の存在が登場します。個人主義的成功の裏面に忍び寄り、〈私〉のうちに在りながらその存在を脅かす何ものかです。ユングは〈影〉を自我のバランサーとして無意識内に措定しましたが、前世紀の個人主義こそが、意識と無意識との葛藤からなる神経症概念を構成していたことがわかります。

しかし今世紀に入り、解離性障害にせよ発達障害にせよ、従来の無意識概念では説明が困難な病態が注目されているのは、個人主義の限界が露呈された帰結です。現代は新たな準拠枠を求めています。

近代以前はどうだったのでしょうか。おそらくは共同体のなかで〈私〉と〈私たち〉との境界が不鮮明な、〈共人(co-dividual)〉とでもいうべきあり方が中心だったのでしょう。季節ごとの祝祭というかたちでハレとケを往還することが、役割の硬直を防いでいた可能性があります。

〈私〉成立以後の現代においては〈共人〉は困難で、個人主義は愛国心や集団心理という素朴な全体主義によって支えられざるを得ず、それは人びとの心に潜在する〈影〉を顕わにしてしまうのかもしれません。『ドーン』では、東アフリカ戦争という形で壊滅的に具現化していますし、『決壊』では「離脱者」を代表する「悪魔」がそれに当たります。

それでは、分人化はいかにして統御されているのでしょうか。過剰な分人主義を貫いた『決壊』の崇は、〈愛〉を政治的テクノロジーによる遺伝と環境の帰結と断じ、悲劇を迎えました。逆にいえば、平野作品の多くに登場する夫婦と一人の幼子という最小単位の家族に象徴される〈愛〉こそが、豊かな分人化を保証しているのかもしれません。分人主義とは、存在の原点を問い続ける平野氏のメッセージなのです。

 

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