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述べるか作るか(ロバート キャンベル)

2018年10月号の文學界に掲載された、平野啓一郎デビュー20周年記念企画「平野啓一郎の世界」。同誌に掲載されたエッセイ・作品論・対談記事を公式サイトでもお届けいたします。

「述べて作らず」という言葉がある。

世界の原理を今生きている人がゼロから勝手に作るのではなく、古人が一人ひとり、長い年月をかけて積み上げてきた重厚な真理の束を前に、そのエッセンスを人に伝えるということ。

『論語』にある孔子の箴言である。根拠も形もフェークになりがちな「ゼロから創作する」ことを警戒する孔子の姿勢について、後世の朱子は「旧を伝うるのみ」と表現している。平野啓一郎の『ある男』も、ある意味では述べるか作るか、という究極の尾根伝いに立つ小説といえる。

小説自体は作り物だ(と思われる)が、展開も主題も生きるという「根拠」をめぐる壮大な物語になっている。独りの人間が、逃れがたい苦しみから脱出しようとするとき、ゼロから新たな出発を果たし得るのかどうか。平野さんは今回この一点を見つめ、考え抜き、あらゆる角度から物語として血を与え息を吹き込んで小説に編み上げている。

答えは否。順番に現れる幾人かの人物は急場の際に自らの戸籍を他人に受け渡し、その人のアイデンティティを引き受ける。いわば上書きされたストーリーとして再生する彼らは、自分を「語り(騙り)直す」ことによって、ふたたび人の温もりに触れ、身を立て直すことができる。

重要なのは、交替する相手がすでに社会の片隅で種々の法的手続きを済ませ、認証された個であったということである。その人物は、影のない張りぼてではなく、身分を捨てざるを得ないほど暗く重い過去を背負っている。なりすましている人間は、なぞっているもう一人の轍を微かに見せながら新たな人生へと歩み出す。述べるのであって、作るのではない。

小説では、妻が目の前にいた夫の影を振り返り、一枚一枚、述べられてきたその嘘を剥ぐように見つめ、理解し直そうと努力する。九州の田舎町に住む里枝という女性で、他所からやってきた谷口大祐という男と再婚する。

谷口は林業に従事するが事故で亡くなってしまったことをきっかけに、済んだことと思っていた家族の過去もそれに連なる現在も反転する。嘘を丹念に除いたところに、それでも掻き消すことができない愛の形と実感が表れてくる。物語のもっとも深い部分に、救いが可能であるという場所を、鮮明に示している。


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