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ゆらぎ、うつろう、おおぜいの姿(いしいしんじ)

2018年10月号の文學界に掲載された、平野啓一郎デビュー20周年記念企画「平野啓一郎の世界」。同誌に掲載されたエッセイ・作品論・対談記事を公式サイトでもお届けいたします。

その「男」が誰か、たえず揺らぎ、うつろっていく。『ある男』はそんな小説だ。

主人公は弁護士。「城戸さん」。冒頭で「私」と会った城戸さんは、はじめ、自己紹介をする。その名前も経歴も、ぜんぶ嘘だった。「私」が小説家であることを知ると、城戸さんは「すみません」と謝り、本名は城戸章良で、弁護士をしている、と打ち明ける。

「あなたには、これからは本当のことを言います」と。

そうして小説は、城戸章良のかかわった、「ある事件」のほうへと舵を切るのだ。

事件、といっても、謎を解き明かすことを主眼には置かない。謎は最後まで謎のまま、といっていいし、最初から読者に「ひらかれている」といってもいい。

目をみひらいた読み手は、小説が生きている、と感じるだろう。

なんだか、たえず動いている、と。前へ前へ、だけでなく、横へ、うしろへ。上へ下へ。あるいは、読み手の目の届かない、深い内奥でこそ、『ある男』のひとびとは話し、ほくそ笑み、歩いている。読み手の、行を追っていく目が、小説自体の動きを、より活発に促進させる。つまり読みながら、読者もゆらぎ、動いていく。

横浜に住む城戸章良は、九州在住の主婦・里枝から、縁あって依頼をうける。生真面目で知られた夫・谷口大祐が、自ら伐採した木の下敷きになって死んだ。享年は三十九。ところが死後、夫の大祐は、戸籍に残る「谷口大祐」とは、別人であることが判明する。その男「X」は、いったい誰なのか。ほんとうの谷口大祐は、いま、なにをしているのか。そもそも、生きているのか。

城戸は歩き、訊ね、書く。きわめて有能な弁護士。が、はじめ、読者の目がとどく以上の深度にははいっていかない。  事件の調査と平行し、城戸個人のかかえる問題も明らかになっていく。家庭内の不和。出自にかかわる悩み。以前、ほんとうの大祐と恋人だった美涼と、城戸は出会い、地に足のついたその態度と「愛らしい表情」に心惹かれる。

依頼主の里枝も、日々悩みのなかにいる。亡夫が大好きだった息子から、嘘だったの、と問われる。僕の「谷口悠人」って名前は、何なの、と。ほんとうは、もっとも深く揺らいでいるのは、この男、悠人かもしれない。小説家である「私」は、そのように書く。

Xの名が判明する。曾根崎義彦。しかしその戸籍にある人間も別人だった。Xは、生前に二度、戸籍を他人と交換していた。なぜそのようなことを。生まれついての悩み、生きていればこその苦しみ。Xは「変身」したかったのか。別の戸籍を得たとして、ひとは別の存在になり得るのか。  ひとはひとの、なにを惜しみ、なにを愛するのか。

小説家である私は書く。報告書を書く城戸は、「これまで遍在し、ただ失われるに任せていた原誠という人物が、言葉によって出現し、再び確かに存在してゆくのを実感した」と。「火葬場で、愛する人間の遺骨を、少しでも多く拾い集めようとする遺族の心情」に近い、と。

「自分という人間もまた、まとまりをつけ、一つに練り上げられてゆくような感覚になった」と。

ゆらぎ、うつろう、おおぜいの姿が描かれる。水仙の花に化身するナルキッソス。妊婦の腹のなかの、彼なのか彼女なのか、まだわからない胎児。私は、城戸は、低く呟く。

「子供は成長が早過ぎて、その子らしさ、と思っていたものがすぐにそうではなくなってしまう」と。初めて入ったバーで、バーテンから名刺を受けとった城戸は「谷口です。谷口大祐」と名乗る。そうして、谷口大祐としての過去を語りつづける。小説はここである沸点に達している。読者であるわたしたちも谷口であり城戸である生を同時に生きている。小説家のわたしに、目のとどかない内奥に引きこまれて。

「他人の人生を通じて、間接的になら、自分の人生に触れられるんだ。考えなきゃいけないことも考えられる」と、城戸、わたし、原誠、悠人、「ある男」たちは語る。

「けど、直接は無理なんだよ。体が拒否してしまう。だから、小説でも読んでるみたいだって言ったんだ」

小説家の視野の広さ、視線の揺るぎなさ。小説の表面に見えているものだけでなく、見えないもの同士をつないでいくスピード感。ひとからひとへ、記憶から記憶へと、「ある男」は飛んでいく。生きている速さは、光より速いのだ。  里枝は呟く。

「やはり彼は、いつかは本名で呼んでもらいたかったのでは」と。

「自分の全体が愛されることを願っていたのではないだろうか」と。

全体はみえない。けれども、必ずある。全体と全体とが、いつか溶け合う、と信じることはできる。小説『ある男』を通して、ひとりの「男」が、光速をこえて、人間のゆらぎ全体をとらえようとこころみる。絶望と祈りのはざまで、男自身たえず、ゆらぎ、うつろい、をくりかえしながら。

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