2018年10月号の文學界に掲載された、平野啓一郎デビュー20周年記念企画「平野啓一郎の世界」。同誌に掲載されたエッセイ・作品論・対談記事を公式サイトでもお届けいたします。
京都にある幾つかの大学の建築学科が共同で行う卒業制作展にゲストレクチャラーとレヴュアーとして招かれたときに平野啓一郎に出会った。私はそのとき、環境、特に空間やものと人間の関わりについて興味があり、人が無意識にある状況下や環境下で行ってしまう顕著な行為について話したと思う。アメリカの知覚心理学者ジェームス・ギブソンはそれをアフォーダンス(affordance)と名付け、生態心理学者の佐々木正人はそれは環境が人間に提供する価値のことであり、環境が発する意味のことであると解いていた。私はものを含む環境と人の関係をデザインとして具体化していた。
会が終わって平野と私は初めて言葉を交わした。情けなくもあらゆることに無知な私はそのとき平野啓一郎が芥川賞作家であることを知らなかった。平野はデザイナーという存在と私の話の内容に興味を持ったようだった。私たちはその後も何度か会うようになり、メールのやりとりもするようになった。会ったときは本質とか真理とか事実を暴く面白さについて話が盛り上がった。「気付き」、「きっかけ」を得る楽しさに共感した。私が佐々木正人から聞いたアフォーダンスの話で、「膝から下を切断した人がプールに入ると、最初はバタ足で泳ごうとするが叶わず、自然に人魚のような泳ぎ方になるそうですよ」と話すと盛り上がった。
水と身体のインタラクション(相互作用)は状況に応じて自然に適正化するといった話から、じゃあいったい自由とか不自由とかいうことの意味は何なんでしょうねえ、とか話した。それに伴う人間の情とかっていうのはどういう価値基準で推しはかったりするのでしょうねえ、などと真理の暴露ごっこで盛り上がった。
私はデザイナーとしていつも、人は何が好きか、自分は何が好きか、というようなことを考えている。平野啓一郎も同じような、意識的にあるいは無意識のリサーチを絶え間なく続けている。何かを分かりたいと思っている。分かりたい「その事」を暴露したいと思っている。彼は小説家としてアーティストのように、人の心にある種の刺激(揺り起こし)を与えようとしているのか。あるいはサイエンティストのように解を導き出そうとしているのか。普遍とは何か。真理とは何か。 「調和」とか「違和感」といった感覚に敏感に反応する自己がいることがわかる。
人は「違和感」には気付きやすいが「調和」とは何をなして感じられているのかは分かりにくいものだ。人には「いい」と感じる感覚器が備わってはいるが、「なぜいいか」とはあまり考えない。これを絶え間なく考えているのがアーティストとサイエンティストだ。共に解明に興味のある人種だ。平野は小説家ではあるが、アーティストとしてサイエンスに興味を持ったのか。あるいはサイエンティストがアートに興味をもったのか。そのどちらとも言える。だが一見対極にありそうなこの二つは同じ「創造」で繋がって派生している。今アートとサイエンスは限りなく近寄っている。平野啓一郎はそこに二股をかけている。
最近私は「AMBIENT」という名の個展をやった。オープニングで平野に話をお願いした。彼は来場者の前で私のデザインのことを「そこに存在しているだけでいいもの」と表現した。「近接的無関心」という言葉をつかったように記憶している。独りになると寂しいけど、うるさく構われたくない、でも、側にはいてほしい、という欲求をみたしてやるのだとかいう意味の、臨床心理の専門家が使う言葉のようだ。
彼は人の存在も同じように「何もしてくれなくてもそこにいてくれるだけでいい」という価値があると言った。 「存在」とか「相応しい」とかいう言葉がとっさに浮かんだ。いい言葉を聞いたと思った。
最近彼がどこかで呟いているのを耳にした。「ただ美しい小説が書きたい」といったようなことだったと思う。きっと私たちのなかでは「美しい」とはどういうことなのかという解明が始まっていると思った。
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