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【『マチネの終わりに』英語版刊行記念】2. 小説家としての演出・文体への工夫

text by:平野啓一郎

マチネの終わりに英訳 "At the End of the Matinee"の 4月の刊行に合わせて、3本のショートムービーを公開しました。

同作の創作背景から、自身が小説を書き続ける動機、「過去」との向き合い方というテーマまで。小説を執筆する中で平野啓一郎が考えてきたことを語っています。 

まだ1つ目の記事をお読みになっていない方は以下からご覧ください。
1.「愛」をテーマにした小説の執筆


 

小説家としての演出・文体への工夫

 非常に情報過多で複雑化してしまっている、というのが、この現代社会に対する僕自身の基本的な認識です。小説をある整った形に収めようとすると、どうしても現実の複雑さを単純化してしまいがちです。そうすると、現実そのものから乖離してしまう。どうすればその複雑さをうまく小説の形にまとめることができるのか。その構造的な美観というのをいつも気にしながら、小説を考えています。

 例えば、ひとつの事件が描くときに、もしそれが、近代以前の非常に閉鎖的な村で起きたのであれば、対人関係のコミュニケーションの中で生じる出来事を書いていけば、ひとつの物語になります。しかし、マスメディアが登場し、ソーシャルメディアが登場し、今のように世界中の情報が行き交う中でひとつの出来事を書こうとしたときに、その事件は決して閉鎖的な空間、閉鎖的な町や村の中だけで完結するのではない。全国規模の出来事になるかもしれないし、もしかすると世界規模の、情報の荒波の中に揉まれるかもしれない。

 あるいは、ひとつの町、村の中での非常に小さな貧困を描いたつもりであっても、実は今のようにグローバル化された世界の中で見ると、大きな世界経済の中の、リーマンショックのような出来事の影響によって生じている貧困なのかもしれない。その大きな構造の中で生きている人間、出来事というのをどういう風に書くかというのが僕の小説の一つの試みです。それは20世紀までに成熟してきた小説の技法では、必ずしも捉えきれないのではないかという風に思っています。

 僕の世代は日本では「団塊ジュニア世代」と言われておりまして、これは団塊世代、ベビーブーマー世代の子どもの世代ということになっています。実際、非常に人口も多い世代なんですが、ところがこの世代は就職をするときに、バブル崩壊後の非常に大きな不況が来てしまって、仕事を得るのに非常に苦労した世代なんです。ところが社会はそのころ、まさに新自由主義の真っただ中でした。仕事が得られない、そして裕福になれないという若者たちに対して、社会は「それは努力が足りないからだ」というふうに言ったんです。個人がもっと頑張れば、頑張った人はお金持ちになっているし、努力が足りない人は貧しいままだと。それを“自己責任”という言葉で語っていきました。

 しかし、どう考えてもそれは個人の責任ではない。ある世代に、ある状況の中で社会に出たために起きた不幸なわけです。ですから僕は、自己責任論というものに対して非常に強い抵抗があります。

 小説というのはカテゴリーを書く、カテゴリーを主人公にすることはできないジャンルです。男を主人公にするとか、日本人を主人公にするということはできない。一人の人間、個人を主人公にするしかないわけですが、個人の能力、個人のキャラクターにあまりにも依拠して物語を書いてしまうと、非常に自己責任論的になるわけです。その人生、その人物が成功するのも失敗するのも、本人のキャラクターの問題だとなってしまう。そのことに非常に僕は抵抗を感じています。やはり、大きな構造の中に置かれている登場人物を書かなければいけない。ところが、その構造自体が非常に複雑化しているというのが現代です。

 僕は、小説というのはやはりひとつの時間芸術で、始まりのページがあり終わりのページがあり、その間の時間の流れを体験するというのが読者だと思っています。その一直線の時間の流れの中にいろんな出来事が起きて、一つのプロットを成すというのが小説だと思うのですが、そういった社会の複雑さをすべて継起(けいき)的な構造にして、一本の線にしようとすると、非常に込み入った複雑な物語になってしまいます。それはそれで、もちろん読んでいる間は面白いと思います。それを楽しませる技術もあると思いますが、読み終わってしまうと、あまりにも複雑な物語は「結局どういうことだったのか」というのが、記憶の中でやや、強度に問題が出てしまう。

 それから、アスリートのような読者、つまりどんな山でも、標高の高い山でも登ってしまえるようなアルピニストのような読者であれば、どんな複雑な物語にもついていけますが、やはり現代には、必ずしもそういう読者ではないけれども、本質的に小説というものを、文学というものを非常に切実に必要としている読者はいるはずなんです。そういった読者にも、どうやって読んでもらえるかということを考えたときに、僕は継起的な構造よりも、積層的なレイヤー構造で小説を書くということを意識しています。

 トップのレイヤーには最も単純な物語の層がある。ここはなるべくシンプルに、その物語のラインがエレガントに描けるような、単純であればあるほど美しいというような物語を置く。その下に社会的な問題だとか、歴史的な問題だとか、政治的な問題だとか。あるいは、哲学的な問いだとか、とても言語化できないような人間の感情だとか、あるいは一種のアポリアのようなものがレイヤー化されて設定されている。トップの層の物語だけを楽しみたい人は、スムーズにその物語を楽しむことができる。けれども、その所々に開口部があって、より深く読みたい人はその下のレイヤーの、社会問題のレイヤーも楽しめる。あるいは政治的な問題も楽しめる。あるいはもっと深い哲学的な問いにまで達して物語を楽しめるというような構造をいつも考えています。

 そして、登場人物たちは、そのいくつものレイヤーを物語の中で生きていくわけです。恋愛の場面では恋愛を主体としてトップのレイヤーにいる。けれども、もっと複雑で政治的な状況に巻き込まれているときには、下層に横たわっている政治的なレイヤーを、その人物たちは生きている。必然的にそれぞれの登場人物たちが、非常に複雑な場面性を持った人物として描かれることになっています。そして、過剰な情報をうまく統合するような文体、それは今現在起きている事象から、歴史的な背景を持った大きな時間の流れの中の事象までを含みうるような文体、雑多でありながらある美観を備えた文体というものを、いつも工夫しながら、物語というのを考えています。


       『マチネの終わりに

 物語は、クラシックギタリストの蒔野と、海外の通信社に勤務する洋子の出会いから始まります。初めて出会った時から、強く惹かれ合っていた二人。しかし、洋子には婚約者がいました。やがて、蒔野と洋子の間にすれ違いが生じ、ついに二人の関係は途絶えてしまいます。互いへの愛を断ち切れぬまま、別々の道を歩む二人の運命が再び交わる日はくるのか。
 中心的なテーマは恋愛ではあるものの、様々なテーマが複雑に絡み合い、蒔野と洋子を取り巻く出来事と、答えのでない問いに、連載時の読者は翻弄されっぱなし。 "「ページをめくりたいけどめくりたくない、ずっとその世界に浸りきっていたい」小説"を考えてきた平野啓一郎が贈る、至高の恋愛小説です。

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