読み物

【『マチネの終わりに』英語版刊行記念】1.「愛」をテーマにした小説の執筆

text by:平野啓一郎

マチネの終わりに英訳 "At the End of the Matinee"の 4月の刊行に合わせて、3本のショートムービーを公開しました。

同作の創作背景から、自身が小説を書き続ける動機、「過去」との向き合い方というテーマまで。小説を執筆する中で平野啓一郎が考えてきたことを語っています。

書き起こしと合わせてお楽しみください。


 

『愛』をテーマにした小説の執筆

 子どもの時からずっと、なんとなくこの世の中を「生きづらい」と感じ、疎外感、孤独を感じていました。同時に、やはり「この世界で生きたい」という思いも手放すことが出来ない。この二つの思いの中で揺れ動く気持ちというのが、僕が小説を書く動機になっているんです。
 

 その結果として、この苦しい世界のいったい何が問題になっていて、どうやって生きていったら良いのかということを、具体的に、あるいは思想的に考えていくという仕事が一方にあります。またもう一方には、もっと強烈な、非日常的な美的体験を通じて、つかの間でもこの現実を忘れて解放感を得たいというような、そういった方向性での小説というのがあるんです。それぞれが、両極端な形で作品に出ることもあれば、両方が重なり合いながら書かれる小説というのもあります。

 2000年代から2010年代にかけて、日本ではいろいろなことがありました。非常に長い不況があり、経済的に苦しい状況の中でリーマンショックもありました。それから2011年には東日本大震災もありました。そのあとは政治的な混乱もあり、排外主義だとか差別というのが、非常に大きな問題になりました。そのことを直視して、ある種の絶望感の底から、「どういうふうに生きていったら良いのか」ということを、具体的に考えていく小説をずっと書いていました。それについては一定の成果が出たと思っていますが、その問題を考えるあいだに、自分でも精神的に疲弊した部分がありました。『マチネの終わりに』という小説を書くころには、当時の日本の政治的な状況とかも含めて、正直かなりくたびれていました。社会にもうんざりしていて、自分の中では、「この世の中のいろいろなことを、つかの間、忘れさせてくれるような美しい物語に浸りたい」という気持ちが非常に強くなっていたんです。

 

    『AT THE END OF MATINEE

 

 特に、“分断と対立”ということが、日本でも非常に大きな社会的問題になっていて、それを克服するような愛の物語を書きたいというのが一つの動機でした。それから、僕にとっては音楽というのはいつも大きな心の慰めなのですが、20代の半ばに、音楽家のフレデリック・ショパンと、画家のウジェーヌ・ドラクロワの二人を主人公にした『葬送』という、非常に長い小説を書きました。それは19世紀のフランスを舞台にした物語で、それから20年近く経っていますけど、今でも読者の中では、僕の作品の中ではそれを好きだと言ってくれる人がいます。僕自身も、美しい音楽と崇高な芸術作品、それから高貴な人間性と偉大な人間性に思いをはせながら、執筆をしていたその期間は、非常に幸福な充実感があったんです。それで、また音楽について書きたいという思いが強くなりました。だから『マチネの終わりに』ではクラシックギタリストを主人公にしました。

 一方で、いくら現実から解放されたいと言っても、あまりにもおとぎ話のような、夢のような話だとしらけてしまいます。やはり今の現実の困難というのをあくまで直視しながら、その上で成り立つような美しい物語があれば、それは非常に素晴らしいのではないかと感じていました。そこで、ヒロインは国際的なジャーナリストという設定で、この世界に起きている様々な出来事というのを、彼女の背景を通じて物語化していくということを考えました。 

 そして、この二人の男女の恋愛というのを、小説の一番の主題としながら、現実社会を同時に描いていくという物語の構想が膨らんでいきました。もちろん中心にいるのは蒔野聡史(まきの・さとし)という男性ギタリストと、小峰洋子(こみね・ようこ)というジャーナリストの女性です。ただ、彼らの恋愛だけじゃなくて、親子の愛情、自分の生まれ育った環境への愛情、母国語に対する思い。音楽への愛、美への愛情、友愛。様々な形の愛というのを主題に描きました。

 この物語は、そういった現実を直視して、どうやって生きていくべきかという問いをはらみつつ、やはりつかの間、なにか文学を通じてしか得られないような解放感のある体験になるということが目指された小説です。そう思いながら書いた結果、幸いにして日本でも非常に多くの読者に歓迎されまして、今に至るまで読まれ続けていて、そのことは作家として非常に喜ばしいことだと思っています。

(この記事の続編は後日公開されます)


       『マチネの終わりに

 物語は、クラシックギタリストの蒔野と、海外の通信社に勤務する洋子の出会いから始まります。初めて出会った時から、強く惹かれ合っていた二人。しかし、洋子には婚約者がいました。やがて、蒔野と洋子の間にすれ違いが生じ、ついに二人の関係は途絶えてしまいます。互いへの愛を断ち切れぬまま、別々の道を歩む二人の運命が再び交わる日はくるのか。
 中心的なテーマは恋愛ではあるものの、様々なテーマが複雑に絡み合い、蒔野と洋子を取り巻く出来事と、答えのでない問いに、連載時の読者は翻弄されっぱなし。 "「ページをめくりたいけどめくりたくない、ずっとその世界に浸りきっていたい」小説"を考えてきた平野啓一郎が贈る、至高の恋愛小説です。

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