平野啓一郎と、REALITY株式会社代表DJ RIOさんの対談企画。前編では、分人主義とバーチャルリアリティの関連性を、「身体」を軸に語りました。
続く後編では、アバターと分人主義が社会にどのような影響を及ぼすのかについて話題が展開します。
国や思想、宗教を超えて、分人主義はどのような文化的な広がりを持つ可能性があるのか。最新作『本心』で描かれた──現実の社会を覆う能力主義にバーチャルリアリティはどう立ち向かえるのか。そして、分人主義がバーチャル空間でどう発展するのかについて、二人の意見が交わされます。
※この対談は、KAI-YOU Premiumに掲載された記事からの抜粋です。記事全文はこちらからご覧いただくことができます。
平野啓一郎 + DJ RIOさん + 司会:難波優輝さん
【顔は取り替えられない?】
平野: 2009年に『ドーン』という小説で分人主義を最初に提示した時に、アイデンティティというのは、基本的に関係性や場所ごとにどんどん拡散しようとしていく、と考えました。しかし、その中で変えられないものの一つが、特に身体の中でも顔だと思ったんですね。
──パーソナリティは分化できても、顔は取り替えられない。
平野: 僕たちが直接ぱっと見て、この人は誰々だ、と同定する一番大きな要素はやっぱり顔ですよ。パスポートでも今でも顔写真があるように。分人化しつつも顔だけは一緒なので、顔も変化させることができれば本当にフィジカルな世界でも完全な分人化ができる。
そこでSF的な発想として、顔の中に特殊な可塑性のある物質を埋め込んでいて、特殊なライトを当てると鼻がピューッと高くなるとか、顔を変えられるという設定にしたんですよね。だから、分人には身体的な限界が一つあった。
──別の限界もあるのでしょうか?
平野: もう一つは、そのとき30代だったので、まだ自分の老いを感じてなかったんですけど、最近は白髪も増えてきましたし、鏡を見ていると「自分も歳を取ってきたな」と感じるんですよね。40半ばから身体がすごく変わってきた。このまま歳を取っていったら年齢相応の人間になって、自分が外見に適応していこうとするんじゃないか、というのをすごく感じたんですね。
僕の知り合いの女性で、全盲の方がいます。その人は20代前半くらいで失明してしまって、今は僕より歳上なので50半ばくらいですが、精神的にはすごく若々しいんですよね。
僕はそれは、素敵なことなんじゃないかと思うんです。その人の性格的なことかもしれませんが、一般に、自分の外観の変化に過剰適応しようとする、というのは、相当あると思います。結果、その方は外観にもその精神的な瑞々しさが表れているんです。
DJ RIOさん(以下、敬称略):なるほど……。
平野: 人間は、毎日鏡を見ることで自分の人格をその姿に適応するように変化していっているんでしょう。たとえ白髪でヨボヨボになっても、VR空間では筋肉モリモリの20代前半の青年になると、考えることも変わる気がする。
DJ RIO: 本当にそうですね。いかに身体性と見た目に自分の人格が縛られているか、規定されているか。今までは自覚する手段がなかったけれど、こうやってアバターでまるごと変えることによって自覚できるようになっていますよね。
【分人主義からいくつもの身体へ】
DJ RIO: そもそも分人主義的なコンセプトで作品づくりを始めたのは、どういうきっかけがあったんですか?
平野:『決壊』という小説で「個人」という歴史的な概念に基づきながら、それでも人間がコミュニケーションの中で分化してしまうこと、ネットも登場してきて、コミュニケーションの場がフィジカルな場所だけじゃなくなったことを書こうとしたときに、どうしても上手く書けなかったんですね。
個人という概念だと、いくつもの人格を持っていることをネガティブにしか書きようがなかった。その作品自体非常に暗い終わり方をしたんですけど、その小説を克服して、今の時代をどうしていったらいいのかを考えているときに、「個人」という概念が引っかかってるんじゃないのかなと思いました。
より細分化された単位を導入しないと、現実のコミュニケーションで起きてることはうまく分析できないんじゃないのかな、と考え始めた。裏表があることが否定的に言われてきたけれど、もともと人間には多面性があるはずで、それが普通じゃないのか? それを使い勝手の良い概念で整理していく必要があるんじゃないか? と思ったのが始まりだったんです。
DJ RIO: なるほど、そういう出発だったんですね。
平野: もう一つには、自己否定と自己肯定の話についても考えていました。「個人」という考え方の中では、自分の全部が自分です。
すると、嫌なことがあって、自己否定の感情が起こると、それが自分の全てであるということになってしまい、最悪の場合、自殺というかたちをとってしまうこともある。
学校では嫌な奴がいるからいじめられて嫌な気持ちになっているだけで、家では結構楽しかったり、サッカークラブに行ったら楽しかったりというのが人生のはずなのに、学校でいじめられてるということを自分の全部で引き受けてしまうと、もう自分全部がつらくなってしまう。逆に自己肯定しようと思うと、自分の全体を肯定しないといけなくなってしまって……。
DJ RIO: ありますね……。
平野: だから分人ごとに相対化してみれば、自分が今ストレスを感じてるのはここだなというのがわかる。好きになれる自分でいられるのはこの場所だな、と客観視できるようになる。関係ごとに違う人格だと分けた方が、「とにかく全部一つの自分」というよりも整理しやすいんじゃないのか、と。
DJ RIO: そうですね。だとすると、平野さんに言語化していただいた分人主義に、さらに肉体、身体性を与えるのがバーチャルリアリティだったりとか、アバター文化だったりする、と。より相対化しやすくなってきている。今になって、この対談企画の趣旨がすごい腑に落ちています(笑)。
平野: 分人主義が形をとったのは、ネットが登場した影響が圧倒的に大きかったと思います。相手がどういう顔で他の人と接してるかというのが可視化されましたから。昔はその機会が少なかったから、たまたま別のよく知らない分人を目にして「うわ、裏表がある」とか言ってびっくりしていた。
DJ RIO: 確かに確かに。
──人間がいろんな服を着ることは、ある意味で分人にいろんな自分のペルソナを対応させるような行為だったんじゃないか、と考え始めました。しかし、それはあくまで自分の生まれた身体を使っていた。それが、バーチャル空間ではデジタルな装いが可能になり、各アバターが「分身」となって、たまたま持って生まれた以外の身体になっていく。こうして分人と分身がいろいろ組み合わさってどんどん「わたし」が広がっていく社会って、すごく面白そうですね。
DJ RIO: うん。鷲田清一さんの『ちぐはぐな身体』というファッションについての本で言われていたのが、まさに今言われたことにつながっていますね。
平野: そうですね。
DJ RIO: その相手にどういう社会的存在と認知されたいかをつくるために服を着る。服を着ることによって社会的な存在になる。デジタルになれば、その肉体まるごとをつくり替えられるようになるでしょうね。
本対談のテーマにもなった最新作『本心』は、現在好評発売中です。こちらの特設サイトより試し読みもできますので是非ご覧ください。