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磯野真穂×平野啓一郎 ──「死なない他者」と<わたしらしさのゆくえ>

text by:WIRED CONFERENCE 2021

2021年10月15日に配信された「WIRED CONFERENCE 2021 FUTURE:re-generative 未来を再生せよ!」では、『「死なない他者」と<わたしらしさのゆくえ>』をテーマに人類学者の磯野真穂さんと平野啓一郎が対談しました。

死者やAIエージェントと共在する世界において「他者」はどんな意味を持ち、いかにして<わたし>を再定義するのでしょうか。この記事では、イベントのダイジェストをお届けします。

※「WIRED CONFERENCE 2021」公式サイトではアーカイヴチケットも販売中です。


(平野啓一郎 + 磯野真穂 + 司会:『WIRED』日本版編集長・松島倫明)

 

── 動物やAI・ロボットも「他者」の射程として捉えるとすれば、その他者と自己の関わり、あるいはその他者によって自分がどう変化するかが改めて問われてきます。

そこで究極の他者とも言える「死なない他者」を措定することによって、もう一度、他者や自分、私らしさについて、考えていくセッションにしたいと思います。 

 

分人とは外界からの刺激によって、常にその人向けの自分になること

── 平野さんは「分人主義」をモチーフに多数の作品を執筆されているなかで、一つの方向を突き詰めてきたと思います。最新作『本心』は、母親を亡くした主人公がAIで母親をヴァーチャル上に復活させ、母との「分人」を失うことないように試みた物語でした。『本心』では、分人主義はどこに到達したのでしょうか? 

平野啓一郎(以下、「平野」):この年齢になると、僕の周りでも親との死別を経験した人が多くいます。また、死別ではないですが、介護を通じて、自分がよく知っていたはずの母親や父親が自分を認識できなくなることもあります。例えば、お見舞いに行っても、完全に親が「他者」になってしまう経験をしている人が増えていて、非常に深刻なショックを受けているんです。

 ところが、親を亡くしたり、その介護の過程で受けた悲しみはケアされておらず、その悲しみが社会的には放置されています。僕は母子家庭で育ってきたこともあり、母はまだ存命ですが、こうした経験から、親が亡くなることを想像することが多くなりました。それは不安なイマジネーションに繋がっています。

僕の分人主義的な理解では、愛する人との「分人」は、自分の中で非常に大きな比率を占め、活性化されている状態を意味し、自分が最も生きていて心地良いと感じている「分人」です。その相手がいるからこそ、その人向けの自分になれる。にも関わらず、その愛する人が突然いなくなってしまうと、好きな自分を生きることができなくなる。それが、非常に大きな喪失感になる。

ただ、一般的な喪の作業のプロセスでは、生きている人たちとの関係を通じて、その人たちとの分人の比率が少しずつ大きくなっていくことで、亡くなった人との分人が比率として相対的に低下し、立ち直っていくのではないかと僕は考えています。

ところが、貧困家庭や母子家庭で育つと、母と子の関係は極度に濃密になります。子どもにとっての母親の「分人」の大きさはもちろんですが、母親にとっても、労働環境が悪く一日中働きづめだと、子ども以外との分人、豊かな社会関係を築くことができません。そうすると、やはり、母と子との分人の比率は極端に大きくなりやすい。

その状態で、もし子どもが母親を失ってしまうと、他の人との社会的な分人を通じて喪の作業を辿っていくことがなかなか上手くいきません。非常に孤立した中で、母親との分人を生きたいけれども、その母親がいない状況に置き去りにされてしまうんじゃないかということを考えました。

『本心』ではAIのバーチャルフィギュアが登場していますが、インタラクティブなメディアを通して、本当に亡くなった親と同じ声、同じ笑顔で話しかけられると、感情的に相当に揺さぶられるんじゃないかと思ったんです。

分人とは外界からの刺激によって、常にその人向けの自分になるというアイディアです。母親は亡くなったと分かっているけれど、AIの母親といるときは心が満たされて、他の人と接しているときよりも心地良い分人なのだとしたら、その分人の作り方は良くない、とは他人が言えないんじゃないか。AIとの関係に満足して、人間は生きていけるのかどうか。これが『本心』を執筆するにあたっての一つの問いでした。

 生きている人間は日々変わっていくし、意外なことを言ったりしますよね。この場合、相手の同一性は変わらず、この人でもこんなことを言うんだと思う。けれども、AIの母親が意外なことを言うと、機械の設定がおかしいんじゃないかなと思ってしまう。

AIは過去については学習できるけれど、未来の変化を学習できない。そこが生きている人間とAIの違いだという感覚を主人公が獲得する。これが物語の中盤以降の話です。

 

技術でケアを代替することは否定できない

── 磯野さんは『本心』をどのように読まれましたか。

磯野真穂(以下:磯野):『本心』を読み「主人公の朔也くんとAIの母親の間にケアという関係は成り立っているのか」という問いを立てました。

 結論として、一見、あの二人の間だけだと成立しているように見えますが、一歩引いた視点から見ると、「あれはケアに似た違うもの」という答えに私の中では達しました。周りの人が本来だったらやっている面倒くさいことも含めてやるのがケアだと思うのですが、それをAIの母という技術に移行した時点で、そう思ったんです。

 朔也くんはAIの母親に会いたいときはスイッチをオン、会いたくないときはオフにすればいいですよね。でも生身の人間をオフすることはできず、そこで煩わしさが生じる。そこにケアの本質があると思うのですが、母親をAIで代替するとその面倒くささがシャットアウトされる。その意味で、ケアとは違う何かと思うのですが、平野さんはどう思われますか。

平野:AIと人間の関係なので、どこまでいってもそれ以上ではないと思っています。ただ、メディアには本物ではないにも関わらず、感情的に人の心を動かす力がある。それはどこまでいってもフェイクではありますが。とはいえ、本人が心地良いのであれば、果たして否定できるんだろうか、というのが一つの問いだったんですね。

もう一つは、おっしゃる通り、本来なら誰かが非常に辛い悲しみを抱いているときには、友人や恋人、いろいろな人がケアしてあげるべきです。ですが、母と子の関係が非常に濃密で、他の社会的な関係がほとんどゼロとなってケアしてくれる人が得られないときに、AIやバーチャル空間にケアを求めることが有り得るんじゃないかと思っています。亡くなった人を再現するだけではなく。

そうなったときに、擬似的な人間との関係に孤独を慰める術を唯一見出している人に、とんなのは本当の人間関係じゃないと否定することはとても出来ないと考えたんですよね。

磯野:私も賛成です。そういうことを否定することは全くできないと思いますし、技術が代替するのは有り得ることだと思っています。ただ、最近「ケア」という言葉が包括する領域が広範になりすぎている印象を受け、先のような考えを持ちました。

平野:「ケアは、人が本当にしたいことなのかどうか」というのは複雑な問題で、非常にアンビバレントな感情を伴うものだと思っています。というのは、例えば道で困っている人をちょっと助けてあげる。これは面倒くさいけど、かなり自己肯定感を与えてくれますよね。ケアをする中での喜びもある。

ただ、実際に親の介護をして、ケアをするためには、四六時中、相手に関わらないといけない。ケアがこの先何年続くか分からないときには、必ずしも喜びばかりではない。それがなかなか切り分けられない複雑な問題なのではないでしょうか。

磯野:技術や道具は、ある種の身体の煩わしさ、不都合さを何とか乗り越えるために作り出されています。それは人間の知性の結果ですから、そこに良いも悪いもない。

 ただ、私たちには、生まれたときから「死ぬ」という最大の煩わしさがつきまといます。その中で、ケアとは、ある種の人間の宿命みたいなものと向き合うことなのではないでしょうか。一方で、平野さんがおっしゃったように、ケアを担う人の負荷が極めて高くなることがある。その時に技術への移譲が考えられるのだと思います。

 

自分の力でコントロールできないことこそ、ケアの余地がある

── 改めて、これから私たちはアバターなりAIなりで亡くなった方を再現していけるとすると、「他者が死なない社会」をどう受け止めていくべきでしょうか?

平野:『本心』は「最愛の人の他者性」をテーマに書きましたが、僕がずっと考えているのは「死者の他者性」を社会がどう尊重するのか、ということです。亡くなった人は何を言われても反論できないですから。

 故人が本当は何を思ったか、他の人は分からないはずですよね。分からないことが、他者の「他者性」を尊重するために最低限必要であるはずなのに、愛情が近すぎると、「あいつが今生きていたら、こう言うに違いない」なんてことを言ってしまう。逆に、関係が遠すぎても、「あの人はこう思うに違いない」なんて勝手なことを思うこともあります。

それで、故人を覚えている人たちが亡くなっていくとともに、故人を語れる人が完全に匿名化され、その存在が曖昧で抽象的になっていきます。抽象化する間で、死や死者をいかに自分たちに都合のいいものにしてしまわないかは、重要なことだと思います。

── 他者性といえば、人類学というのはある種、他者をどのように研究するか、受け入れるかということだと思いますが、磯野さんはいかがでしょうか。

磯野:平野さんの分人主義は、個人主義や「本当の自分」のような言説を乗り越えるために書かれていたと思います。それは、精神的な意味では複数性だと思うのですが、他方で、身体に着目すると身体は一つですよね。一つの身体にいろんな分人が混ざって「1」になっているという理解です。

 ただ、人類学の調査では、もっとラディカルな事例もあります。モーリス・レーナルトという宣教師が1954年に発表した『ド・カモ』によると、ニューカレドニア島に住むカナク人たちは「身体」に完全に合致する単語を持っていなかったそうです。

 つまり、彼らにとっての身体は私たちのような「1」ではないんです。個人が体の中に閉じ込めらえれていない。そうすると何が起こるかというと、死の概念も変わり、ある意味、死が曖昧になるんです。そこがベースになると、死なない他者という概念というか、現実が達成可能になってくる。

平野:今のご指摘は、おっしゃる通りですね。現実として、これ以上分けられない身体として「individual」という言葉があるけれど、対人関係ごとにパーソナリティは分化していくんだ、というのが僕のアイディアだったんです。

ただ、身体というのは、コントロールができないときに、どうしても他者的に感じられます。その一つが、病気です。僕の分人化理論で考えると、体調が悪いときには身体との間に分人化が発生し、痛みしか考えられなくなります。

磯野:それは痛みという分人を生きる、ということでしょうか。

平野:そうです。だから、誰かから話しかけられても、その人との間に適切な分人化が起きず、痛みの分人に全てを支配されている。そのときに身体はとても他者的に感じられます。現実としては、意識も自我も身体的な現象だけれど、身体を他者的に感じる瞬間があるから、どうしてもどこかで二元論的に感じ取ってしまうのではないかと思います。

磯野:人類学者のロバート・マーフィーは少しずつ体が動かなくなる病気になったのですが、『ボディ・サイレント』という著書で、自分の体を徐々に“this”や”it”と呼び始めます。完全に他者でも人でもなく「物」になり、「物」としての分離が起きるという話があるんです。

 ケアは、分離の中でどうしようもない他者性を繋ぎ止めつつ、それとどう生きていくか、ある種の模索がケアそのものなのかなと、今お話を聞いていて思いました。

平野:身体が他者的になればなるほど、自分の力ではコントロールできないので、自分の身体であるにもかかわらず、誰かに手伝ってもらう必要がでてきます。そこにケアの余地があるのではないでしょうか。

 今は、そのようなケアをできるだけ機械化していく方向に進んでいますが、一概に悪いことではないですよね。例えば、排泄サポートなどは多くの方が誰かにやってもらうよりも、機械にやってもらった方がストレスがないでしょう。

しかし、コミュニケーションの次元では、多くの人はAIではなく人間と対話をしたいと思っているのではないでしょうか。

今、フィジカルからメンタルまで何もかもケアの対象になっていますが、テクノロジーの進歩の中で、AIが適当であるものと、本当は人間の方がよいけれども『本心』のようにAIが代替的にやるしかない領域など分かれていくのではないかと思っています。

  

私達が普段使っている言葉を、自分の身体がある場所に実装する

── これからの時代のセルフ+ケアを考えるうえで、小説や人類学はどんな意味があるのか、どんなメッセージを出していけるのか、最後に一言ずつお伺いしたいと思います。

磯野:人類学者というよりは、研究者として、大人として、またこれから死んでいく身として、一言だけお伝えします。今回のセッションで「インクルーシブ」、「ケア」、「コモンズ」といった大きな単語が頻繁に使われていたことにも関係することです。このような言葉は、とても心地よく響きますし、それを使う人々は、何かとても輝かしい未来について語ってて、さらにはそれを実践している人たちであるように聞こえます。

でも私が問いたいのは、それら言葉を、このようなメディアの光に照らされていない、自分の暮らしの足元で本当に実践できているか、ということです。セルフ+ケアを考えることは、まさに自分の身体に関わることであり、それは他者の身体とともにある場です。その場所でこのカンファレンスで語られるようなことが実践できた時、自分のみならず、他者もケアすることができるのだと思います。

 私達が研究者として普段から使っている言葉を、今私の身体がある場所に実装するとはどういうことなんだろう、と考えていきたいと思っています。

  

他者との良好な関係を実践的に探っていくことが、セルフケアや自己認識に繋がっていく

平野:自分はこうしたいという欲望は、結局は、社会構造などを通じて他者の欲望を引き受けているにすぎないとよく言われていますよね。とはいえ、何もかもが上手く他者の欲望が内面化されているわけではありません。

小説を読んで多くの人が感動するのは、まさに自分のことが書かれてある、と感じるからではないでしょうか。ただ、自分のことだと思うということは、何らかの自意識があるはずです。自意識があるのであれば、他人の物語を読む必要はない。それにも関わらず、他人の物語を通じて自分を把握することに喜びがあり発見がある。それが小説を読むということなんですよね。

つまり、実は他者の欲望は上手く内面化できておらず、他者がいるからこそ経験されている何かがずっとあって、その後に、自分がもう1回発見されて、セルフケアの話になってくるのではないでしょうか。そういう意味で言うと、他者と関わり続けることは自分自身の発見にも繋がっているし、それが喜びにもなれば、時にはストレスにもなっているかもしれません。

けれども、一人で生きていくことはできないですし、できない以上、他者との関係の中には「セルフケア」といった意味があることを納得していかなければいけない。では、どうすればそれが良好な関係になりうるのか実践的に探っていくことが、ひいてはセルフケアや自己認識に繋がっていくのではないかと思います。

(ライティング:松永恵 / 編集:池田きょうこ、ぐみ)


磯野真穂●独立人類学者。専門は文化人類学・医療人類学。著書に『なぜふつうに食べられないのか──拒食と過食の文化人類学』、宮野真生子との共著に『急に具合が悪くなる』など。

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