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【『マチネの終わりに』英語版刊行記念】多様性を実現するための「愛」と「関係性」

text by:平野啓一郎

 

『マチネの終わりに』英訳 "At the End of the Matinee"の4月の刊行に合わせて公開した3本のショートムービーに加えて、「多様性」をテーマにしたインタヴュー動画を新たに公開しました。

世界で拡大する分断を克服し、多様性を実現するために必要なことは何か。作品のテーマでもある「愛」「分人」「関係性」といった観点から語っています。

書き起こしと合わせてお楽しみください。


 

 

多様性を実現するための「愛」と「関係性」

 今日は、多様性と他者との関係について、お話をしたいと思います。
「多様性が重要だ」、そして「そのために分断と対立を克服しなければいけない」というのは、こんにち世界中で強調されていることです。そのことについては、僕も完全に同意しています。そして、どうすればそれが実現できるのかということについて、政治的な様々な議論がなされていて、また運動も行われています。

 基本的には、2つの考え方があるのではないかと思います。まず多様性というものを実現するような、より高い次元の価値観を実現していく。例えば基本的人権の尊重とか、法の下の平等とか、あるいはヒューマニズムとか。そういったものを実現していくことが重要だということです。これについては僕も完全にそのように信じていますし、僕たちの政治的な努力というのは、いつもそれに向けてなされていくべきだと思っています。

 その一方で、僕が今日お話ししたいのは、より細かな、人間同士の関係性を通じて多様性を実現し、分断と対立を克服していくという術(すべ)があるのではないかということです。

 アマルティア・センという経済学者がいますけれども、彼は「社会の分断と対立を工作する人間にとって最も重要な戦略は、一人の人間、個人を、1つのカテゴリー、アイデンティティーに1対1で結びつけてしまうことだ」と言っています。例えば「あの人は黒人だ」「あの人は白人だ」「あの人は男だ」「あの人はキリスト教徒だ」と個人を1つのカテゴリーに結びつけてしまうと、黒人と白人だとか、アジア系の人間とヨーロッパ系の人間だとか、カテゴリー同士の対立を煽ろうとしている人たちにとっては、非常に都合がいいわけです。また、人と人との結びつきを維持しようとする人たちにとっては、そのようなカテゴリーで分断されてしまうと、そこにコミュニケーションの経路が絶たれてしまう。

 しかし僕たちは、男であるとか女であるとか、黒人であるアジア系であるとか、一つのカテゴリーでは到底収まりきれないような非常に多様な属性を実は備えています。例えば僕であれば、アジア系の人間であり、日本人であり、男性で、あるいは子どもを2人育てている父親で、音楽が好きで、ジャズが好きで、ロックが好きで、もちろん小説家であり、エドガー・アラン・ポーも好きであれば、ドストエフスキーも好きで、というように。非常に多様性を持っています。

 そうしますと、僕たちはカテゴリー同士で隔てられた人の中にも、何か共通する属性を探し出すということができるはずなわけです。文学が好きだとか、野球が好きだとか、あるいは二人の子育てをしていていろいろ苦労があるとか。そういった、それぞれの人間が抱えている多様な属性の中のどこかで、僕たちは相手との回路を開拓し、それを維持することができれば、たとえカテゴリーで分断されたとしてもコミュニケーションとして維持することができるわけです。そして、ひとりの人間を決して一つの単一のアイデンティティーに回収することなく、それぞれの人間が内的に多様であるということを認めるのであれば、僕たちは常に他者との関係性を維持するチャンネルが開かれているということが言えるのではないか。それが、多様性を維持するために分断を克服していく、ひとつの戦略ではないかと思うわけです。

 この、センが語っている話を少し僕なりにアプローチを変えて語ってみたいと思います。僕が注目しているのは「個人」という概念です。”individual”という概念は、欧米の人にとってはある意味自明の概念かもしれませんが、我々アジアの国の人間にとっては、近代になってから初めて輸入された概念でした。そしてindividual、個人とはいったいどんな概念なのかということはそれだけに、より意識的に考えてこなければいけませんでした。個人というのは文字通り、分けることができないという意味です。ですから、肉体的にも主体においても、ひとりの人間というのは分割不可能な一体性を備えている。その分割不可能な存在に基本的な人権を与えて、それを社会の最小単位として制度をデザインしていくというのが近代という時代だったと思います。

 しかし、僕は「個人」、分けられないひとりの人間という存在に対して「分人」という概念を提唱しています。これは、僕たちは対人関係ごとにいろいろな自分に変化していくわけです。例えば、恋人と一緒のときの自分とか、会社にいるときの自分とか、あるいは両親といるときの自分、昔の幼なじみといるときの自分というのは、少しずつ、話し方も違えば気分も違うし、態度も違うというように、異なった自分を生きているわけです。その振幅がすごく大きい人もいれば、そんなに違わないという人もいるかもしれませんが、やはり、恋人と部屋に二人きりでいるときの自分と、会社で同僚と真剣な話をしているときの自分というのは同じではないのではないかと。

 そして僕は、個人の中で対人関係ごとに、あるいは環境ごとに分化する一つ一つの人格を、「個人」に対して「分人」、”dividual”と名付けました。そして、「ひとりの人間は、複数の分人の集合体である」というモデルで、人間をとらえなおそうとしています。これは、旧来のペルソナのモデルのように、「中心には本当の自分という核があって、社会とコミュニケートするために、仮面だとかペルソナといったものを表面的に複数使い分けるしかない」という考え方ではなくて、「対人関係ごとの分人というのは、すべて本当の自分だ」と考えて、その複数の分人が中心もなくネットワーク化されているというモデルです。

 その分人というのも、決して同じ比率で自分の中で備わっているわけではない。例えば、そのとき付き合っている恋人との分人が重要であれば、円グラフの中で、恋人との分人が30%くらい占めている。会社の同僚との分人が15%くらいとか、仲の良い友達との分人が10%とか、小説家としての分人が20%とか、いくつかの分人を抱えていて、対人関係が変わるごとにその比率が変化していくというふうに考えます。

 

 

分人主義 自己肯定と自己否定

 この考え方を、僕は小説執筆を通じて発展させてきたのですが、その一つの動機は自己肯定と自己否定について考えるためでした。といいますのも、一人の人間を分割できない一体の存在として考えますと、僕たちが人生で見舞われるトラブル、ひとつひとつをすべて自分の全部として受け止めてしまうことになるわけです。例えば、職場が非常につらい人は、職場にいる自分がつらいというのではなくて、自分の全部に対して非常につらい気持ちになってしまう。自己否定的な感情を抱いてしまう。あるいは親子関係が非常に悪い人は、親子関係だけじゃなくて、自分の全体に対して生きるのがつらいという感情を抱いてしまう。

 ところが、もし僕たちがそういった分割できない「個人」という概念に基づくモデルではなくて、「分人」という概念に基づいたモデルで自分を把握するならば、会社にいるときの自分、恋人といるときの自分、友達といるときの自分というのをひとつひとつ相対的に見て、自分のストレスになっている分人がいったいどれなのか、そして、どの分人を生きているときが幸福感を感じて心地良いのかということを客観的に考えることができます。

 そうしますと、困難を克服するときには、自分の中では、どの心地良い分人の比率を大きくして、ストレスのある分人の比率を小さくすべきか、そのためには人間関係や自分がいる場所をどのように整理していけばよいかということが、具体的に考えられます。そして、自分が心地良い分人でいるということは、必ず誰かといるときの自分、あるいは何か音楽でも文学でも良いのですが、何か対象を通じて実感する自分というのがそこにあるわけです。僕たちは、自己肯定というのを、個人の全体を肯定するという形ではなかなかうまく行うことが出来ません。よほどのナルシストじゃない限り。だけど、誰かといる時の自分が好きだとか、あの音楽を聴いているときの自分が好きという形、つまり、他者を経由して自分に至るという回路を獲得することが出来れば、比較的容易に自己肯定ということができるわけです。逆に、自分が嫌いだという時にはやはり、他者との関係性がひとつのキーになっているという風に考えることができるわけです。つまり、自分に対して肯定的な気持ちになるときには、やはり他者の存在が必要なのだと。他者を経由することが重要なのだと。これが共生の根源ではないかと僕は思います。

 この話を発展させて、多様性とコミュニティーの話につなげます。僕たちは、他者とコミュニケーションを図るときには、主に言語を介して、常に他者性というものが自分の中に混ざり合っていく経験をしています。相手の考え方だとか、言葉の使い方だとか、物の感じ方だとか。あるいは文化的背景というのは、コミュニケーションを交わせば交わすほど、僕の中にどんどん混ざりこんでいきます。そして、その相手だけじゃなくて、いろいろな人とコミュニケーションを交わすたびに、僕はいろんな人の他者性というものが、僕の中に混ざりこんでいきます。

 そうすると、それを排除して、自分という人間を完全に純化するということは不可能なわけです。僕の中には、雑多な他者性というのは常に混ざり合っている。その複数の他者性がまた僕の中で混ざり合っていくという経験が常に起こっています。だから、ある人と僕とを完全に分断しようとしたときには、たとえ僕とその人との間に切れ目を入れたとしても、僕の中ですでに混ざり合っている他者性というのは排除することはできないのです。

 Individualという概念は、確かに一人の人間の一体性ということを語っていますが、裏を返せば、隣の他者と自分とは違う人間だ。divideできて、もうこれ以上divideできない存在として、個人という人間があるという考え方をするわけです。ですから、他者とは切断されていて、independentだと考えるのが「個人」という概念です。それに対して、「分人」と僕が呼んでいる考え方は、自分の中には内的に複数の存在が、内的に人格が複数化されますが、他者との間では、常にコミュニケーションを通じて、分割できない共同の共通の場所、共同の関係が維持されるというふうに考えるわけです。つまり、他者との間には、分割不可能な何かが常に維持されていると考えるわけです。

 そうしますと、僕たちは、あるカテゴリーによって他者と分断されようとした時にも、すでに他者性が僕の中に混ざっていて、しかも、具体的な固有名詞を持った誰かとの関係というのは、決して分割できないものとして維持されているわけです。それが、カテゴリーを通じて社会を分断しようとする力に抵抗する、より細かな、しかし力強い関係性になっていくのではないかと僕は考えています。

 そしてその時に、やはり重要なのは“愛”ではないかと思います。人と人とがそのように、お互いの他者性というのを交換しながら、分割することのできない、ある場所というのを常に築いていく。その時に、愛というのは非常に強い力を持っていて、それは必ずしも恋愛だけではなくて、師弟愛だとか、郷土愛だとか、自分のしゃべっている言語に対する愛だとか、音楽に対する愛だとか、友人に対する友愛だとか、いろいろな愛の形があります。それが、近年僕が書いている小説の一つのテーマになっていまして、特に今回、英語への翻訳としては2作目になる『マチネの終わりに』という小説の、一つの非常に大きなテーマになっています。この機会にぜひ手に取って読んでいただければと思います。


       『マチネの終わりに

 物語は、クラシックギタリストの蒔野と、海外の通信社に勤務する洋子の出会いから始まります。初めて出会った時から、強く惹かれ合っていた二人。しかし、洋子には婚約者がいました。やがて、蒔野と洋子の間にすれ違いが生じ、ついに二人の関係は途絶えてしまいます。互いへの愛を断ち切れぬまま、別々の道を歩む二人の運命が再び交わる日はくるのか。
 中心的なテーマは恋愛ではあるものの、様々なテーマが複雑に絡み合い、蒔野と洋子を取り巻く出来事と、答えのでない問いに、連載時の読者は翻弄されっぱなし。 "「ページをめくりたいけどめくりたくない、ずっとその世界に浸りきっていたい」小説"を考えてきた平野啓一郎が贈る、至高の恋愛小説です。

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