「平野啓一郎 公式メールレター」では、読者の方々と直接的に交流し、平野作品の裏側を知っていただくため、みなさんからのご意見・ご質問を受け付けています。
今回は、そのQ&Aの一部を読み物形式でご紹介します。ぜひお楽しみください。
Q1. 恋愛小説のオススメを教えて下さい。
平野啓一郎(以下、平野):意外と難しいのですが、超王道だと、僕はやっぱり、『アンナ・カレーニナ』はスゴいと思います。心憎いばかりに、恋愛心理が描かれていますね。リョーヴィンというのは、本当に魅力的な人物で、いかにもトルストイ的な人物でありながら、ドストエフスキーの小説にも登場し得る深みを備えています。
あと、友人のキム・ヨンスの『世界の果て、彼女』という短編集が僕は大好きなのですが、この中には何とも言えない恋愛小説の傑作が幾つも入ってます。
女性の描き方に好感を持ったという感想を、女性読者から時々戴きます。男性作家としては、ちょっとほっとするというか、とても嬉しいのですが、女性も色々ですから、何か違うと思われることもあるでしょう(笑)。基本的には想像ですが、モデルがいることもあり、その他、今までの人生で接してきた人達、今現在、親しくしている人達の印象も、色んなかたちで反映されているのでしょう。それは、男性の登場人物も同じですが。あと、うちは母子家庭で、姉がいて、祖母と同居していて、母方のいとこもみんな女の子、……という環境だったので、女性に囲まれていた、というのはあると思います。社会の中にある女性差別に対して、自分のこととして強い嫌悪感を抱くのは、父が死んだあと、母がシングルマザーとして働いていたから、というのが大きいと思います。
Q2. まだ『マチネの終わりに』と『ある男』を読んだだけですが、「平野ワールド」にはまりつつある感じです。文章の味わい深さとともに、それと不可分なのかもしれませんが、他の作家と比べても非常に漢字表記が多いと思いました。日頃読み慣れない、見慣れない漢字が多く、辞書を引きながら読み進めたページもありました。平野さんは、漢字表記について何かこだわりをお持ちでしょうか。
平野:かなりある方だと思うのですが、僕が日常的に接している文章は、文学作品や思想関連の本などが大半なので、その語彙の感覚です。一般の印刷物は、マスメディアと学校教育のかなり恣意的な基準で漢字の使用が制限されていますので、それに準ずると、表現の幅が狭くなってしまいます。とはいえ、初期に比べると、大分漢字は少なくなってますが。……
Q3. 文章を書く際、道具はどんなものを使っていますか?キーボードは、以前Realforceを使っているというのをTwitterで拝見した気がしますが、あれは現在も使われているのでしょうか…。また文房具、特に万年筆のこだわりなどあればお聞きしたいです…!
平野:僕はいかにもMacを使ってそうな人間と目されがちですが(笑)、ずーっと、windowsです。話せば長くなるので、またそのうち。基本的には「一太郎」で、ATOKを使って書いてます。キーボードはそれです!
万年筆は、色んな人から、昔、お祝いで貰ったモンブランとか、その時の気分で使い分けてます。今は、Blue Blackではなく、Toffee Brownという色のインクを使ってます。
Q4. 平野さんの小説が好きですが、ひとつ、いつも引っかかってしまうことがあります。平野さんの小説の中には大体「美人な女性」が出てきます。 平野さんの美しい小説は、ヒロインや登場人物に美人な女性が登場しなくても、きっと美しいです。 美しいと形容をつけるのは、なぜですか? 洋子が美しくなくても、『マチネの終わりに』の蒔野は洋子に惹かれましたか? 容姿が美しくなくても、良いのだと思えるような小説も読んでみたいです。
平野:重要なご指摘だと思います。ルッキズムに対して、社会的にも敏感になってきているので、その点からの僕の過去作に対する批評はあるでしょうね。三島や谷崎、ワイルドやトーマス・マンなどを十代の頃に愛読しましたから、自分の中に染みついているものがあります。これはヒロインだけでなく、僕の男性の主人公にも言えそうです。『一月物語』などは、ハッキリと眉目秀麗な青年と書いてますので(彼の表情にはそれで片づかないものもあるのですが)。
ただ、ストレートに容姿の「美しさ」を語っているところもありますが、どちらかというと、「つくり」よりも表情とか、雰囲気とか、そういうものから全体的に受け取る印象を、「美しさ」と認識しています。そう言って良いのかどうかは、『「カッコいい」とは何か』でも考察しましたので、ご覧下さい。
より本質的には、その人間の内面や行動を含めた全体から受ける印象を、「美しい」と感じ、そう書こうともしています。その意味では、「美しい」という言葉を、人間に用いること自体については、僕は否定的ではないです。アフガニスタンで亡くなった中村哲さんは、美しい人だと思います。彼の精神、思想、荒野が緑地と化した大地を眺める彼の佇まい、……など。
洋子の場合も、基本的にはそのつもりです。だからこそ、外観への言及は必要ないのでは、と言えば、そうかもしれません。ただ、ある登場人物の外観から、周囲の人物達がどういう印象を受けるか、そして、それをどう書くべきかというのは、一つの問題としてあります。主人公が、心の中で「美人だな」と感じることは、あえて書いているところもあります。他方、地の文で作者がそう書くことはまた別問題でしょう。これも、今後ますます、センシティヴになっていくでしょうね。……世間で喧しく言われるから、不本意ながら従う、というのではなく、実際に様々な読者の声が可視化される中で、多様な人々に配慮しつつ書くというのは、どういうことか、真面目に考える必要があると思います。因みに、実生活では、外見の話をあれこれ言うようなことはしませんが、小説は文字記号からだけ成り立っていますからね。どうイメージしてもらうか。19世紀の小説などは、僕が読んでもふしぎなくらい、顔の描写が延々と続いたりしますね。
因みに、洋子は、好きになった蒔野には「美しく」見えてますが(リチャードもそう思ってるでしょう)、早苗にはそう見えていません。そういうこともあります。新宿駅で雨の日に蒔野を待つ洋子を見た時には、うっかり早苗も美しいと感じてしまうのですが、それはまた、「つくり」とは別の話なんですよね。……
蒔野と洋子が、お互いに惹かれたのは、物凄く単純に言うと、話があったからです。喋っていて楽しい、と。ただ、恋愛関係に陥る人たちの間で、一つの要素として風貌がまったく意味を成さないかというと、否定しきれないでしょう。他の美点がそれを凌駕できないとは、全然、思いませんが。その人といる時の分人が好き、というのが僕の思想です。
風貌だけでなく、内面その他、別の点の魅力を総合的にしっかり描くといったことは、勿論、重要です。また、外観に魅了されることを批評的に書く、特に「美しい」という認識のために、女性が性的な欲求の対象とされることの不幸などは、幾つかの小説で僕も主題化してきた問題です。風貌がスティグマ化されてしまうことの問題も。『ある男』の主人公や里枝などは、風貌の「美しさ」を特に強調せずにうまく人物造形が出来た例でしょうね。
これは、大問題ですので、僕の上記の説明も、まったく不十分だとは思います。引き続き、考えます。ありがとうございます。
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