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マイケル・サンデル教授 × 平野啓一郎──「あなたがしんどいのは、あなたのせい?」能力主義の問題点とは何か

text by:ハフポスト日本版

「私が成功できたのは、私が努力したからだ」
「苦しい状況にあるのは、その人の努力が足りないからだ」というのは、本当に正しいでしょうか?────

10月13日、ハーバード大学のマイケル・サンデル教授と平野啓一郎の対談番組が、「ハフポスト日本版」より配信されました。

サンデル教授は新刊『実力も運のうち 能力主義は正義か?』の中で、能力主義が広がる現代社会に警鐘を鳴らしました。人生で「運」の持つ力に目を向け、成功は自分の手柄だという考えを疑うことが、勝者と敗者の分断をなくすために必要だと語ります。

一方の平野啓一郎も、最新長篇『本心』をはじめ、作品の重要テーマの一つとして、「自己責任論」「運命論」そして「社会の分断」の問題を考え続けてきました。

サンデル教授が考える、分断を埋めるために必要なものとは何か? 平野啓一郎の提唱する「分人主義」は、能力主義社会の生きづらさに対抗する手段となりうるのか?

読み応えたっぷりの対談記録をお楽しみください!

(※この記事は「ハフポスト日本版」に掲載された記事からの抜粋です。記事全文はこちらのリンクよりご覧いただくことができます

 

▼番組のアーカイヴ動画はこちら


 

平野啓一郎(以下「平野」):こんにちは、小説家の平野啓一郎です。

今日は新刊『実力も運のうち 能力主義は正義か?』が非常に好評のマイケル・サンデル教授をお招きして、対談させていただきたいと思います。

この本は日本でもとても売れていて、もう8万部を超えていると先ほど出版社の方もおっしゃっていました。

僕たちが普段ずっと考えてきた能力主義、あるいは自己責任論。色々なことが縦横無尽に論じられていて、日本人もみんな読むべきじゃないか、というくらい非常に重要な本です。

早速、サンデル教授をお招きしたいと思います。今日はよろしくお願いします。

 

マイケル・サンデル教授(以下「サンデル教授」):平野さん、初めまして。今日はよろしくお願いいたします。

 

平野:サンデルさんは、今日はどちらから配信なさってるんでしょうか? 

 

サンデル教授:今日はスペインのマドリードから参加しています。執筆作業をしたり、友人に会ったり、美しいスペインの街や太陽を楽しんだりしながら妻と過ごしています。

 

平野:てっきりアメリカからだと思っていました。驚きです。では時間も限られていますので、早速本題に入っていきます。最初に少し、僕のこの本の感想からお話させていただいて、対談に入っていきたいと思います。

 

 

「能力主義」と日本社会
~根強い自己責任論と、傷ついた人々〜

平野:日本でも新自由主義の影響のもと、自己責任論、あるいは承認欲求(の問題)といったことが30年来ずっと指摘されてきています。

新自由主義自体は世界的な潮流で、自己責任論もその影響下にあるとわかっていながらも、どことなく自己責任論というのは日本独特の問題なんじゃないかという風に感じられてきていました。

実際、僕も海外で自己責任論について話す時に、どんな風に翻訳していいのかわからないと感じたり、日本独特の問題だと言われたりすることがあったんですが、この本の中ではそれが能力主義という観点から非常にクリアに、網羅的に論じられていました。この問題が、アメリカやヨーロッパでも非常に大きな問題を引き起こしているということが改めて理解できました。

日本の状況について少しお話ししますと、日本はバブル経済の崩壊後、「失われた30年」という非常に長い経済的停滞を経験しています。その中で新自由主義的な政策が進められ、格差が広がり続けてきました。経済的に豊かな人たちは「勝ち組」と言われ、そうじゃない人たちは「負け組」という言い方までされました。

ゼロ年代は、この勝ち組・負け組に関して、どちらかというと勝ち組を擁護するような言説が多く見られました。豊かになった人たちはその分頑張って働いてるんだ、努力してるんだから当然じゃないかと。そして、貧しい人たちは努力が足りないんだということで、どちらかというと放っておかれ、しょうがないことだと見做される傾向がありました。僕はこれを「冷たい、消極的な否定論」と名付けています。

その後リーマンショックがあり、年越し派遣村のような社会的運動があって、派遣労働している貧困層の存在が社会に可視化されました。

それから東日本大震災があり、一時期、日本全体で非常に強いナショナリズムが高揚し、その反動として、日本人とは一体何なのかと問いただしたり、日本人の中で税金で救われるべき人と救われる必要のない人を選別しようとするような思想が強まりました。

また、日本の財政危機が強く意識されるようになると、税金で救うべき人と救うべきじゃない人がいるといったようなことが議論されるようになる。努力せずに貧困に陥っている(ように見える)人、あるいは食生活が非常に乱れて糖尿病になったというような人たちは「医療保険で救う必要がない」「税金で救う必要がない」などと言われるようになり、ひいては、「その人たちによって税負担が増える」「彼らはみんなに迷惑をかけている」と批判されるような論調が出てきました。

僕はこれをゼロ年代の「冷たい、消極的な否定論」に対して「熱い、積極的な否定論」と区別して呼んでいます。

いずれにせよこの能力主義というのが、社会的にうまくいってない人たちの尊厳を非常に傷つけているというのは、この本で見事に分析されてる通りです。

(サンデルさんが本で指摘されていたように)日本においても、社会的な評価は、その人が何の職業に就いているかということが非常に大きな意味を持っているので、雇用状況が不安定な中で、深刻なアイデンティティクライシスに陥っている人たちがいます。

とりわけ僕の世代ーー今の40代くらいーーは日本のロストジェネレーションと言われていて、ちょうど大学を卒業して就職するときに、バブル経済崩壊直後で日本が非常に経済的に厳しくなった世代。職を得ることが非常に厳しかった。

その後の人生においてずっと雇用が不安定な人も多く、苦労する中で「それは自己責任だ」と言われ続けたことに非常に傷つき、そして「それは決して自己責任じゃないんだ、社会的な問題なんだ」ということを批判的に語ってきた世代でした。

ここで改めて、『運も実力のうち』というご著書の中で、サンデルさんが能力主義の問題点として一番強調したかった点を教えていただけますでしょうか。

 

サンデル教授: まずは「能力主義」についての議論における、日本の状況や文脈をシェアしてくださってありがとうございます。非常に興味深いです。

日本における労働問題や「勝ち組」と「負け組」の格差、自己責任論の風潮は、私が欧米社会で見てきたものと幾つか共通点があります。

ここ数十年の間、勝者と敗者の格差はますます深まり、政治を蝕み、私たちを引き離し、社会を結びつける絆を失わせています。 このような勝者と敗者の間の格差は、ここ数十年の間に拡大した不平等と関係しています。

しかしそれだけではなく、人々の「成功」に対する考え方の変化も関係していると私は考えています。

競争の激しいグローバリゼーションの時代で、トップに立った人たちは、自分の成功は自分自身の手柄であり、であるがゆえに、自分は市場からもたらされる利益を受けるに値する存在だと感じるようになりました。

そして、勝者はこのように考えるようになります。取り残された人々、苦労している人々も同様に、そうなるべくしてなったのだと。これが能力主義の非常に冷酷な側面だといえます。

そもそも論でいえば、能力主義は原理的には崇高な理想と言えます。チャンスが平等であるならば、勝者は勝ちに値するのだというのですから。しかしそれは、平野さんがおっしゃったような自己責任論に直接的に結びついてしまうという残酷な一面がある。

自己責任論は勝者にとっては魅力的なものです。なぜなら彼らは「私の成功は私自身が成し遂げ、勝ち取ったものだ。自力で成功したのだから、私はその成功による利益を手にするに値する存在だ」と言うことができるのだから。

しかし、この原理が不安定な仕事や厳しい経済状況の中で取り残されてしまった人々に適用されると、無慈悲なものになります。なぜならそれは彼らにとって「あなたの失敗はあなたのせい」「あなた自身の責任」ということになるからです。

その結果、能力主義は勝者に、ある種の傲慢さ、謙虚さの欠如、そして自分の力ですべてを達成したという考えを生み出すともに、取り残された人々の間に屈辱感を生んでしまうのです。

そしてこの勝者と敗者の間の溝、つまり誰が成功し、誰が苦労しているかについての厳しい評価が、社会を苦しめ、社会の構造を破壊しているのだと私は考えます。

同じことがアメリカでも、ヨーロッパでも起きています。そして平野さんがおっしゃっていたことに基づけば、日本でもパラレルな状況があるのだと思います。

 

「努力がすべて」は間違っている
〜大谷翔平選手がすごいのは、彼の努力だけによるもの?〜

平野さん:実際、実力主義・能力主義というのは、非常に魅力があるというだけではなく、ある意味では人間として自然なことなんじゃないかと思うこともあります。

例えば5人ぐらいの人が一緒にいて、何かをしなくてはならない時、1人が非常に不器用で上手にできなかったとします。そこに上手にできる人がいて「僕がやればもっとうまくできる」というような状況ならば「僕に代わってほしい」と言ってみるかもしれない。そうすることで5人みんながハッピーになる。こういうことはごく自然にあることで、実は社会的な実力主義というのも、ある意味ではそれが拡張されたものじゃないかと思うんです。

政府に無能だと感じる人がいる時、あるいは会社の中でまったく実力のない人が社長をやっている時、自分に代わってほしいと思う感情の拡張に近い気がします。

ただ、見逃せない点としては、今はそれぞれの職業が非常に高度で専門化していっているので、実力主義と学力主義が結局結びついてしまっていて、それが大きな差別の要因になっているというのもあります。


それからもう一つは、必ずしも学力主義と関係なく、例えばラッパーの世界などでも、非常に能力主義的な考え方が支配的です。

僕は『マチネの終わりに』という小説の中で、Jay-Zというラッパー(とアリシア・キース)が歌っている”Empire State of Mind”という曲を聞いてーーこれは、自分は非常に恵まれないところから出てきた人間だけど、最後にはこんな大成功した、ニューヨークは夢を叶えてくれる街だということを高らかに歌ってる曲なんですけどもーーニューヨークで冴えない生活をしている登場人物の女性が非常に憂鬱な気分になるという場面を描いたことがあります。

あるいはYouTubeでお金を稼いでいる人たちも、「YouTubeなんかでお金を稼いで」などと言われた時には「毎日動画をアップするのにどれだけ努力をしているか」ということを主張し、非常に能力主義的に自分の努力と成果を強調しますよね。

念の為、改めて整理をさせてください。サンデルさんは、能力主義が学力と結びついて人間の評価に直結しているということに非常に批判的であると同時に、一方で能力主義自体は、それ以外のもっとひどい制度に比べればマシな制度であり、ある意味では“必要悪”的な部分もあり、それ自体を完全に否定することはできないというお立場だと理解してよろしいのでしょうか?

 

サンデル教授:問題の核心を突く非常におもしろい質問ですね。平野さんの考えに対して同意します。

有能な人が仕事を担い、社会的役割を果たすという意味で「能力」はよいことです。もし私が外科手術を受けるなら、腕のいい医者に担当してもらいたいですし、飛行機に乗るなら、十分な資格を持つパイロットに操縦してもらいたいと思います。仕事や社会的役割を、能力のある人に担ってほしいと望むのは当たり前のことです。 

問題が生じるのは、私たちの「成功」というものに対する価値体系が、社会的役割をうまくこなせる人にその役割を分配(allocate)することと絡み合ったときです。

これは平野さんが指摘した「努力」にまつわる論点につながります。その人が仕事や社会的役割をうまく果たせるのは、努力や訓練の賜物だという側面があり、それはそれで重要です。しかし、「努力がすべて」と考えるのは誤りなのです。

偉大なスポーツ選手を例に考えてみましょう。私は野球が大好きで、大谷翔平選手の大ファンなので、是非ここでは彼について考えてみましょう。彼は野球史上もっとも偉大な選手の一人だと思います。

では、彼はどうやってあれほど偉大な野球選手になったのでしょうか。 当然ながら子どもの頃から練習し、懸命に鍛錬し努力を惜しまなかったでしょう。それは真実です。「投げる」と「打つ」の両方ができるなんて本当にすごいことです。

けれども私だって幼い頃から野球を練習しました。野球が大好きで何時間でも練習しました。しかし、たとえ私が1日24時間練習しても大谷選手のような偉大な選手には決してなれないでしょう。なぜなら、彼には私とは違って、彼自身の努力に加え、素晴らしいスポーツの才能があるからです。

これが、努力だけが様々な仕事や社会的役割における成功の理由と考えるのは間違っている理由です。ましてや、ある人が才能に恵まれ、その結果、成功しているからといって、才能をその人の手柄と考えるのは一層間違いです。私たちはよくそう考えてしまいがちですが、これは間違っています。

そして考えてみてください。大谷選手が幸運なのは、投打の素晴らしい才能があるだけではなく、人々が野球を愛し、野球そのものを非常に高く評価する時代に生きているという点にもあります。そして当然そのことは彼の手柄ではありません。

もし大谷選手がイタリアのルネサンス期に生きていたら、どうなっていたでしょう? 当時は野球の人気がなく、彼は今日ほど評価されていなかったでしょう。当時の人々は野球よりもフレスコ画家を評価していましたからね。

私たちがどれだけ才能に恵まれていたとしても、それは私たちの手柄ではありません。私たちの自己責任でもなく、運です。また、持って生まれた才能が、たまたま高く評価される時代と社会に生きているということも、私たちの手柄ではありませんし、私たちの自己責任ではないのです。これが、能力主義社会において、成功者にもっと謙虚さが必要と私が考える理由です。

謙虚さは、才能を育んだ幸運の存在を認め、持って生まれたその才能に対して評価や栄誉や報酬を与えられる時代にたまたま生きているということを認めることから始まります。 だから、私は成功者こそ自分のおごりを疑い、成功は自分の手柄だという考えを問う必要があると思います。

人生で運の持つ役割に目を向ければ、偶然にも自分が手にした才能に対して、より謙虚な態度になります。そうした謙虚さがあれば、異なる才能を持っていたり、自分ほどの功績はなくとも、社会に重要な貢献を果たしているすべての同胞に、より大きな責任感を抱くことになると考えます。

ご理解頂けたでしょうか。

 

平野:非常に共感します。最近日本では東京オリンピック・パラリンピックが開催されました。その時期に読んだ新聞記事で興味深いものがありました。

オリンピックのアスリートは特別な人たちであるということを多くの人は理解しているのに、ことパラリンピックになると、「障害者だって努力すればあれぐらいのことができるんだ」という風に自分たちを励まそうとする、そう言われることが非常にプレッシャーになって苦しい、ということをパラリンピックを見ていた障害者の人が語っていたものでした。

結果は努力のみで引き寄せられるものではないと知ることは、多くの生きづらさを解消する意味でも重要だと考えます。

 

▼記事全文を読む(ハフポスト日本版)
前編:大谷翔平選手の成功は誰のおかげ? マイケル・サンデル教授と平野啓一郎さんが語る能力主義と自己責任論
後編:東大やハーバードの入試には「くじ」が必要だ。マイケル・サンデル教授が「運の存在」に気づかせようとする理由


最新長篇『本心』は、ミステリー的手法を使いながらも、「社会の分断」「貧困」といった問題を描いた平野文学の到達点です。こちらの特設サイトより試し読みもできます。

  本心平野啓一郎

【あらすじ】
愛する人の本当の心を、あなたは知っていますか?
シングルマザーとして生きてきた母が生涯隠し続けた事実とは──

舞台は、「自由死」が合法化された近未来の日本。最新技術を使い、生前そっくりの母を再生させた息子は、「自由死」を望んだ母の、<本心>を探ろうとする。
母の友人だった女性、かつて交際関係のあった老作家…。それらの人たちから語られる、まったく知らなかった母のもう一つの顔。
さらには、母が自分に隠していた衝撃の事実を知る── 。

『マチネの終わりに』『ある男』に続く、感動の最新長篇!

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