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松尾 豊×平野啓一郎──2040年代の死生観を考える

text by:平野啓一郎

2022年6月13日に開催されたAPI(一般財団法人アジア・パシフィック・イニシアティブ)10周年記念式典では、人工知能を軸に基礎研究から社会一般に実装すべく取り組み続けている東京大学教授の松尾 豊さんと、平野啓一郎が対談を行いました。

最新テクノロジーがさらに発展した未来において、個人と他者の関係性、そして死生観はどう変化していくのか。2040年代の日本を舞台にした最新長篇「本心』を軸に対話しました。

ダイジェストで対談の一部をお届けします。ぜひ最後までお楽しみください。


 

【ロスジェネ世代の一人として、2040年代を考える】

──最新長篇『本心』の舞台として2040年代を選んだ背景や意図をお聞かせください。

平野:僕は小説家として常にいつも、「現代」を中心に考えています。以前は、物事がうまくいかない理由を過去の出来事に紐づけて考えがちでしたが、現在を過去との因果関係の中で考えてしまうと、雁字搦めになってしまい、未来のために今何をするかと考えられなくなってしまいます。そこで、未来の展望から現代を考えていくべきだと思うようになりました。

僕と松尾さんは1975年生まれで「団塊ジュニア」と呼ばれている世代です。同時にいわゆる「ロスジェネ世代(ロスト・ジェネレーション世代)」とも呼ばれていて、バブル崩壊後の就職にとても苦労した人が多く、老後の資金を十分に蓄えることが難しい方も少なからずいると思っています。

この世代が高齢者になる時代には、少子高齢化がさらに進んでいることは確実なわけで、「いったい日本はどうなっているんだろう」と多くの人たちが戦々恐々と見守っている様子をひしひしと感じています。そうなると、財政的側面あるいは少子化の側面から「ロスジェネ世代の人たちはいつまで生きるのか」という疑問が社会の中でも共有されていくでしょう。

このため僕らの世代は「自分は一体いつまで生きていくべきか」「生きていられるんだろうか」「本当に自分が生き続けていていいのか」という問いを内面化しながら、2040年代に高齢者の一人になるのではないでしょうか。

一方で、僕には10歳と8歳の子どもがいます。彼らが社会の中心として活躍する年代は、果たしてどんな世の中になっているのか、子供たちに何を身につけさせてやれば未来の世界を生き抜く力になるんだろうかということも考えています。

自分の世代の不安と子供世代の将来のために、2040年代を考えてみるべきではないか。これが時代設定の動機のひとつでした。

その上で「人間とは何か」と考えたときに、現在も進歩が非常に目覚ましいAIがどう発展していくのかに、小説家として興味がありました。

『本心』では、母親を亡くした主人公が、母親のライフログをAIに学習させて、あたかも母親が生き続けているかのように話しかけ続ける「バーチャル・フィギュア」を作りだします。そして主人公は母親ではなくAIが学習してしゃべっていることを百も承知だけれども、あまりにもリアルに語りかけられるがゆえに非常にエモーショナルに反応してしまうわけです。

僕たちの記憶は頭の中にあり、亡くなった人とは二度と会話できません。しかし代替的な方法であれば亡くなった人とも会話を続けることができるかもしれない、あるいは記憶の中で失われてしまった場所をもう一度訪れることができるかもしれない。そのとき人間の死生観や他者という存在、あるいはこの世界の価値がどう変化していくのか。僕はそこに興味を抱きました。

もうひとつ付け加えると、自分の生まれながらの条件、たとえば性別や容姿、経済状態では現実の世界を生きていくのが苦しいけれども、オンラインではなりたい自分になれる世界が急速に発展していくと、フィジカルな世界を生きるよりもバーチャルの世界に生きた方が人生が楽しいと考える人たちも増えてくると思うんですね。

現時点では多くの人たちがリアルの世界とオンラインの世界にある種の価値観の序列、つまり人間の本当の人生経験はフィジカルの世界でありオンラインは副次的なものだと考える傾向がまだあると思います。でもそれが逆転することも既に起きつつあるかもしれません。そういった世界観の激変を小説家として捉えてみたいと思い『本心』を書きました。

──ありがとうございます。松尾先生、2040年代の世界では何ができて何ができないのでしょう。見通しを聞かせてください。

松尾:今は「ディープラーニング」「DX」「Web3.0」などのキーワードが目立っていますが、最近では自然言語処理分野において大規模言語モデルの開発が活発に行われており、様々なタスクを高精度に処理できるようになっています。このモデルは巨大になればなるほど精度が上がるとわかっていて、オープンAI、Google、DeepMindが競い合っています。

たとえばGoogleが発表したPaLMは5400億パラメータを持ってる超巨大モデルで、ジョークを言うと、そのジョークがなぜ面白いのかを説明できるんです。これまでは想像の世界でしかできなかったことが次々とできるようになってきているんですよね。数年後にはこれらが我々の日常や仕事に組み込まれていくはずで、このインパクトは大きいでしょう。

そのため2040年と言わず、近い将来に相当な飛躍があると僕は思っています。今はまだ限られた分野にしか使われていないAIが、技術的な突破によって広範囲に使えるようになる。ここからが次のフェーズの始まりになるでしょう。

 

【『本心』で「自由死」を取り上げた理由】

──平野さんは作中で「自由死」をテーマとして取り上げていました。「自由死」を選べるとしたら、選びたいですか? 意識をデジタル上に半永久的に残せる選択肢もある中で死を選ぶとは、どういう意味を持つのか。ぜひお2人のご意見を聞かせてください。

平野:最初に「自由死」と「安楽死」の違いを説明させてください。安楽死自体はオランダやスイス、スペインなど複数の国でも合法化されており、アメリカのいくつかの州では、議論も始まっています。そして安楽死には積極的安楽死と消極的安楽死の2つがあり、積極的安楽死は薬を投与し絶命させることで、消極的安楽死とは簡単に言うと延命治療をしないことです。

オランダでは、安楽死には厳密な条件が定められています。まず登録制度の下、一人の主治医が特定の患者さんを継続的に診ていて、不治の病や継続的な苦痛があること、そして「一時的な抑うつ状態で死を希望しているのではなく、明確な意思を持っている」などのポイントを確認し、安楽死が許されているのが現状です。

これに対して僕が『本心』で書いた「自由死」は、自分の意思で無条件に死を定められることを実験的に提示しました。なぜそう考えたかというと、冒頭でお伝えしたように「自分の世代は一体いつまで生きるのか」という社会的な眼差しを内包しながら高齢者になることを考えると、やはりこの問い自体が非常に大きな存在になると思っているからです。

僕はこの世に生まれてきたからには人生を全うしたほうがいいと思っていますし、有り体に言えば、命の大切さを説きたくて小説を書いているようなところもあります。ただ、オランダの例では、親族や友達が最後にみんなで病室に集まってパーティーをして、「今までありがとう」と挨拶やハグを交わし、その後、投薬されます。

僕たちが愛する人との別れについて一番悲しいと思うことのひとつは、死がいつもあまりにも唐突で、親や愛する人の死に目に会えないことです。その経験は大きなトラウマになりうる。

自分自身が高齢になったとき、死を偶然任せにしていれば海外留学している自分の子供と会えず、遠くにいる家族や親友と挨拶できないまま亡くなるわけです。でも自分で死の自己決定権を持ち、タイミングを定められるのなら、親族や友達にお別れをする機会を持てる。

賛成反対の議論は大いにあると思いますが、生まれることに関しては医学や科学が介入してきているので、死を自己決定したいという議論は早晩必ず出てくると思っています。とはいえ、なし崩し的に認めていくと必ず問題が発生するでしょう。特に今のように格差が非常に大きく開いてしまっている中では、非常に悲惨な形で「もう十分だ」と「自由死」を選択する人が出てくるんじゃないかと危惧しています。

僕が強調したいのは、僕たちは誰でもいつか死ぬということです。だからこそ、平時に死の自己決定権について議論するのはとても重要なことなんです。哲学でも西洋思想史の歴史の中でも、ひとつの思想として「自分で死ぬと決めるべきだ」という主張がありますよね。

僕がいま非常に懸念しているのは、「やまゆり学園の事件」のように、他人が勝手に優生思想に基づいてその人たちには生きる資格がないとジャッジするような犯罪が起きたときに、頓珍漢にも、死の自己決定権について議論すべきだという話が出てしまうことです。

むしろ事件が起きたときには、僕は一旦議論をやめるべきだと思っています。状況が落ち着いてから、社会的弱者を対象にするのではなく、人類全体に関わる問題として考えるべきです。

社会的弱者の人たちに自己決定権みたいなものを押し付けながら「自分たちは関係ないけど、社会的弱者の人たちの権利として考えるべきだよね」と論じるのは、とんでもないことです。

だから松尾さんがおっしゃっていた「不死」のような概念に対して、「いや、自分は不死を選びたくない」と死を選択するのもひとつの考え方だと思っています。

 

【“本心”は非常に不確かなものである】

松尾:まさに『本心』で描かれていたことですね。ただ僕は、本当に自分で死を選んだのか見極めるのは、非常に難しいように感じています。家族は反対するでしょうし、そこに社会的合意はできていくんでしょうか。

平野:当初はタイトルを『心』にしようかと検討していました。夏目漱石の有名な小説もありますし。

でもあえて『本心』としたのは、僕たちの社会では、本心から同意・合意していることに関しては契約も成立しますし、たとえば新しい法律を制定するときも国民が本心から納得している制度は良い制度だと思われますよね。しぶしぶ納得したように見せかけて本心では納得していない場合は契約も成立しません。

ただ本心が本当に確かなものかというと、やはり揺らぎもあります。ある状況ではもう十分生きたと思うかもしれないけど、別の状況ではやっぱり命が惜しいと思う場合もあるでしょう。たとえば自分の子供に対しては「もう私は十分に生きたから死にたい」と言ったとしても、友達と喋ってるときに「もうちょっと頑張って生きてよ」と言われたら、そんな気になるとか。

だから本心はやはり非常に不確かなもので、松尾さんがおっしゃったように社会構造の中でどこまで自由意志なのかわからないところもあります。そうすると、本心が揺らぐ、本心がわからないというのは、私的な関係の中での問題のように見えながら、実は社会制度の根本的立脚点でもあるのでしょう。

「自由死」制度を設定したときにも本心は最も根本的な立脚点となり、本人が本心から納得しているから「自由死」が認められる。

ただ、その本心自体がわからないとなると、社会制度自体が揺らいでしまいます。そのため本心が本心であるということを制度的に担保する必要があるでしょうが、難しいことも事実です。制度ができるには、大きな課題がありますよね。

松尾:社会的な合意をどのような基準で作るべきかは、非常に難しい問いですね。人間は生まれてからずっと外界から影響を受け続け、外界のデータから学習しているわけです。外界の影響がない決断がそもそもあり得るのかとも思いますし、そうすると本心とは一体何なのか、という問いになりますね。

そして僕自身は、社会的な合意に辿り着きそうにない気がしています。たとえば、自分の名前を決める権利は誰もが基本的に持っていませんよね。もしそれが可能であれば、試験の出来が悪かったから名前を変えることも可能になるでしょうし、アンラッキーだったことを名前のせいにすることもできるわけです。しかしそれはおそらく無駄な行為でしょうし、その考え自体を思考の変数から除いたほうがいいでしょう。

他にも思考から変数ではなくしたほうがいいことは、たくさんありますよね。宗教はこれらを規定して「いつ死ぬべきか」を考えないほうがいいとしているのでしょう。

僕自身も、議論するのはとても大事だとは思っていますが、自由意志の外にしたほうがいいんじゃないかという気もしています。

平野:僕は、積極的に「自由死」や安楽死制度について話していくべきというよりも、議論が必要とされる世の中が目前に迫っていると思っています。

切羽詰まった状態で、本当に苦しい人が「自分が死なないといけないんじゃないか」という方向へ進まないためには、一人ひとりが自分の、そして社会における共通の問題として思想的に考えるべきだと考えています。それは、法制度化を目指してスケジュールを決めて、と具体的に落としどころを考える、といった次元とはまた別の話だと思っています。

 

【デジタル世界で「不死」が可能な未来】

──デジタルの世界では既存の「生」や「死」の概念が置き換えられわる現象があり得ると思いますが、どう思われますか?

松尾:最近のシリコンバレーでは、不死(Immortality)がタブーではなくなってきています。

これには2つの意味合いがあります。まず、老化は病気だと認識されてきているんです。病気を治療するのと同じように老化と戦おうと唱える書籍『Lifespan』も2019年に出版されました。次に、”Digital immortality”です。要するに、デジタルの世界で不死になるという意味です。

不死や不老不死は、多くの国でタブーであると思われていますよね。物語では不老不死を願う人は不幸になりがちですし。でもアメリカでは、たとえばTVドラマの「Black Mirror」や「Upload」など、AIと人間が融合する可能性を探るストーリーが作られるようになってきています。

イーロン・マスクも、自身が共同設立者であるNeuralinkにおいて、自分の脳に針型電極を刺してデータを取ろうとしてますし、シリコンバレーの起業家には「僕は死なない」と公言する人もいます。そういう世界観になってきている。日本でも『火の鳥』や『攻殻機動隊』などマンガやアニメの世界では不老不死やAI、アンドロイドがテーマになっている作品も数多くあるので、もう少し盛り上がってもいいのではないかと個人的には思っているのですが。

平野:脳があくまで細胞でできた生物のものとして残りながら、体の各パーツが義体などと交換され人工的になるのならイメージできます。でも、ここに自分という人間がいて意識活動だけがコンピュータ上に移されるのには、かなりの飛躍を感じています。僕も話としてはわかるんですが、全然イメージがわかないところがあるんですよね。

松尾:コンピュータ上では、何でもありになってしまうんですよね。先ほどの内分泌系や報酬系の話も、プログラムで変更可能ですし。

ただ、人間の価値観や倫理は長い歴史を経て作られたものです。となると、コンピュータ上でも人間のような身体を持つか、メタバースのような世界で動くほうが、最初はいいでしょうね。

 

【本当に「不死」を手に入れたいか?】

平野:自分の意識がコンピュータの中で100年・200年単位で持続することを想像したとき、松尾先生はやってみたいと思われますか。それとも、いやそれはちょっと...…と違和感を抱かれますか。

松尾:やってみたいですね。

平野:半永久的なものか、それとも200~300年ぐらいがいいのか。イメージはありますか?

松尾:どうでしょうね。それこそ会場の皆さんに聞いてみたいですね。

平野:たとえば仏教においては、生きている世界は生老病死があり非常に過酷で、基本的にこの世は一切の苦です。そのため、死んで生まれ変わることは非常にネガティブに捉えられています。苦しい世界に何度も生まれ続けることから解脱して、ニルヴァーナに達して生まれ変わらない境地に至るのが最終的な目標だったわけですよね。

けれども近代以降の社会は生きている現実世界が楽しいから、輪廻転生を「もう1回生き返ることができて嬉しい」と捉える部分もある。

ただ、仏教が生まれたインドの哲学における時間感覚では、百億年ほどの永遠に近い長さをひとつの単位としているんです。その長さで輪廻し続けると思うと、どこかのタイミングで解脱したい気持ちもよくわかります。

江戸時代は侍で、今は会社員で、次の未来はスポーツ選手というような輪廻であれば、夢があるようにも感じます。

でももし機械の中に自分の意識がアップロードされたとして、自分の親しい人たちはみんな亡くなり、ポツンと自分の意識がコンピュータの中にずっと持続するとします。そして僕の意識が虚しさまで感じられるレベルだったとしたら、意識の半永久的な持続を本当に願うのかどうかは懐疑的ですね。未来を見てみたい気持ちもあるし、自分の死を非常に強く恐れていることもあるでしょうが。

松尾:インド哲学の時間軸で考えるためには、宇宙の他の星に行かない限りは無理でしょうね。実際には最も近くても数光年ですから。

平野:そうですよね(笑) 僕は、自分の好きな人たちとこの世界で共に生きていることを、人生の非常に大きな喜びの前提だと思っているんですよね。

小説家のオスカー・ワイルドは「天国なんか行きたくない」と言っていました。自分の友達は誰もそこにいないから、という、非常にワイルドらしいアイロニーなんです。ただワイルドの言わんとすることはわかるといいますか、僕は小説家ですから、人生に心から満足している人はわざわざ小説なんて読まないと思っているんです。

人生の中で満たされていなかったり孤独だったりする人たちが、本を通じて共感を得ようとしていて、そういう人たちに自分の本を読んでもらいたいと思って書いてるので、そういう人たちと同時代に生きていることが、自分の中で非常に大きな意味を持っていますね。


(ライティング:池田杏子、編集:山口香織)

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