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東畑開人×平野啓一郎────緑なす文学的断片をめぐる対話【前編】「本当の自分」と職業選択

text by:平野啓一郎

2021年11月14日にゲンロンカフェにて配信されたトークイベント「『本心』はどこへ消えた?──緑なす文学的断片をめぐる対話」では、臨床心理士の東畑開人さんと平野啓一郎が対談を行いました。司会はノンフィクションライターの石戸諭さんです。

過去・現在・未来における心の在り方、そして心と文学の関係性とは?

前後編のダイジェストで、対談の一部をお届けします。

【写真提供:株式会社ゲンロン】

※ この対談は、2021年11月14日にゲンロンカフェ主催のトークイベントとしてインターネット配信された番組の一部です。同番組は、放送プラットフォーム「シラス」の「ゲンロン完全中継チャンネル」にて、2022年5月14日までアーカイブを公開しています(有料)。以降の再配信やアーカイブの視聴については、ゲンロンカフェHPをご確認ください。


 

『本心』で描きたかった主人公のジレンマ 

【写真提供:株式会社ゲンロン】

──ここ数年、平野さんは小説作品の中で、分人主義をアップデートしてきている印象があります。最新長篇『本心』での分人主義の狙いを教えてください。

平野:かつては「人間の中心には『本当の自分』があり、複数の社会的なペルソナを使い分けて生きている」というモデルが一般的でした。この場合、本当の自分と表面的な自分という序列ができます。

一方、僕が書き続けている分人主義とは「対人関係ごとの自分すべてが本当の自分であり、唯一無二の本当の自分などいない」という考え方です。

『本心』に関して言うと、さまざまな場面や相手ごとに異なる自分、すなわち「分人」になると、非常に心地の良い分人もあれば、ストレスを感じる分人もあるわけです。自分がどの分人をどういう比率で生きるのか、ある程度コントロールできるのが人間の自由だとすると、その分人のいくつかがバーチャルな存在というのもあり得ると思ったんですよね。

最近ではメタバースなど、オンライン上に新しい現実が生まれようとしていますが、現実に対して、オンラインの世界は今でも低く位置付けられているのではないでしょうか。つまり人間がフィジカルに生きる世界こそが本当の世界で、オンラインの世界は不健康であると。けれども僕は、そうは言えなくなってきていると思うんです。

母親や愛する人を亡くしたとき、あるいは恋人を切望しているのに恋人ができないなど、いろいろな事情で通念的価値観からすると欠損と言われるような何かを抱えているとき、人は他でそれを満たそうとしますよね。

例えば『本心』の主人公は、他界した母親のバーチャルな存在を作り、それに傷ついた心を慰めてもらおうとする。それを、自分の親がまだ元気という、ある意味「リア充」の立場から「そんなの偽物じゃん」と言ってはいけないと思ったんですよね。そういう形で心を慰めることもありうるのではないか、と。

とはいえ今のAIは基本的にパターン学習をしていくだけなので、過去は学習できても未来を学習することはできない。そこがどうしても本物に近づけないところでもある。本人が代替的な存在に心慰められ、その分人を生きているのが好きであれば、それでいいじゃないかという肯定的な感情と、しかしどうしても本物を期待しながら接しているかぎり満たされないものがあるというつらさ。このジレンマを『本心』では書きたかったんです。

──『本心』では、大切な人に対しても最後まで「わからなさ」を残しながら展開させていらっしゃいましたね。

平野:そうですね。実はタイトル候補に『心』も挙がっていたんです。夏目漱石の小説『こころ』は誰もが知っていますし、そこをあえて漢字にするのも良いかなと。

ただ本のタイトルはやはり、読みたい、知りたい感情を喚起しないといけません。心と言われてもピンとこない一方で、本心は誰もが知りたいけれどもなかなか他人が知ることは難しいものですよね。そういう経緯があって『本心』というタイトルにしました。

 

「本当の自分」は職業選択の問題と大きく密接している

【写真提供:株式会社ゲンロン】

東畑:本心と言えば、70年代~90年代初めくらいまで、「本当の自分の時代」というものがありました。自分の中にまだ見ぬ可能性があるのではないかと、アイデンティティを探し求めていったわけです。物は豊かになった、心はどうなのか?という、深層心理学の時代だったんですよね。

ただ深層心理学は徐々に下火になっていくんです。本当の自分はどうかなんて、食えてから言えよ、みたいな厳しい時代になりました。

僕はいわゆる深層心理学的な心理療法を主な仕事にしていますが、患者さんが真剣に自分の心について考えないといけなくなるのは、本当の自分ではなく、「本当のあなた」が問題になるときですね。他者といかに関係を持つかという問題とともに「本当の」がやってくる。二人称の深層、親密性の問題ですね。

具体的には、本当の自分を探したくてカウンセリングに来る人はほぼいなくなったのですが、家族と問題を抱えていたり、誰とも繋がりを持っておらずカウンセリングにやってくる人はいる。そのときに「最愛の人の他者性」という問題が現れてくる。

つまり「他者を信じられるか」という課題です。「一人称の本当さ」から「二人称の本当さ」へと変化しつつあるわけです。

平野さんは、このあたりについてどう考えていますか?

【写真提供:株式会社ゲンロン】

平野:一つには、職業選択の問題はかなり大きいと思っています。

20代で一つの職業を選択すると、60歳までの約40年間続く。そうすると職業はその人のアイデンティティの中心になりますよね。どうしても一つの自分に収斂させていく必要がある。とはいえ本当に自分がやりたいことや本当の自分を強く考えさせられても、そう簡単にはわからないわけです。

もう一つは、職業選択の中で、本当の自分を探し求めてようやく探り当てて就職しようとしたときには、僕らはちょうど就職氷河期世代だったので、自分の希望通りには就職できない。そうすると社会的に自分は一体何者なのかという深刻なアイデンティティクライシスに陥る。これがいわゆるロスジェネという世代ではないでしょうか。

だからひとまず就職しても、どうにも耐えられなくなって20代後半に退職してバックパッカーとして海外へ行く人も多かった。本当にやりたいことは、何の仕事をしたいかに結びついていたわけです。

ただ、今は終身雇用制度が崩壊し、副業をする人も増えてきています。本当の自分を一つに定めて職業と結び付ける発想は弱まってくると思います。

また、僕が子どもの頃は、対人関係ごとに異なる自分になることを、「八方美人」「裏表がある」などとネガティブに語られていましたが、インターネットが登場して、一人のユーザーが複数のアカウントを持ったり、一つのアカウントでもいろんな人といろんな人格で接することが、かなり可視化されるようになってきましたよね。自分が見ていないところでその人が違う人格を生きることが自明化されている中で、本当の自分を一つに定める発想自体が薄らいでいったんじゃないかという気がします。

東畑:いま僕は大学に勤めていますが、学生たちの就職活動を見ていると、「仕事=やりたいこと」であるべきだとせっつかれているんですね。

単純に仕事をこなすだけではなく、モチベーションを保ちながらクリエイティビティを発揮できる人材であれという産業界からの要請があります。そうすると、就活生は本当に私がやりたいことを見つけないといけなくなり、そういうものが見つからないと自尊心が下がっていってしまう。

 

読書とは、時間経過とともに主体が練り上げられていく体験

──東畑さんは新刊『心はどこへ消えた』(文藝春秋)の中で、分人主義にどう向き合っていったのでしょうか?

東畑:この本の執筆中は「心があるためには、他者と自分の二つの心が必要だ」というようなことを書いていると思っていました。ただ書き終わってからは、自分の中に複数の心があることが心の成立条件だと考え直したんですよね。

つまり、私が私のことを考えるリフレクティビティの構造です。激怒する自分と、なんとか許してあげたい自分。両者に緊張関係があるとき、人は自分の中に心の存在を感じると思ったんです。

平野さんの『私とは何か 「個人」から「分人」へ』では、複数の分人が存在し、本当の自分は存在しないとありますよね。分人主義はおそらく、社会の中で個人主義で生きることが苦しい、その生きづらさへの処方箋として存在している。

一方、小説ではむしろ、その複数の分人がどう織り合っていくか、どう対応していくかにずっと焦点が当たっている。複数のものが複数のままでいいというだけでは形にならず、それらが葛藤し続けている印象があったのですが、どうでしょう?

【写真提供:株式会社ゲンロン】

平野:そうですね、今の話から少しずれるかもしれませんが、物語を通じて主体が時間経過とともに強く練り上げられていく体験を、読者は小説に求めています。だから確かに複数の分人、複数の要素が複数的に経験されるだけでは駄目なんですよね。断片化された情報が雑誌のように見開きページに配置されていても、読者はそういったものにとても反発するんですよ。

それから、人は複数の分人を持ちながら生きているわけですが、物語ではその分人の比率がぐっと変わっていくことを読者が求めていると思っています。

例えば、ドストエフスキーの『罪と罰』でも、主人公のラスコーリニコフがソーニャという女性と知り合い、ソーニャとの分人が徐々に大きくなっていくと、人を殺して何が悪いと思うようになる。つまり分人の比率の変化を体験しているわけです。

一方で、ドストエフスキーの『悪霊』に出てくるキリーロフのようにほぼ分人化しない、誰に会ってもキリーロフというイデオロギーの完全な主体になっている登場人物もいる。

小説は、ストーリーの中で、ある程度の典型となる個性を備えた人物たちが登場し、そのうちの特定の誰かとの関係が大きくなる様子を描くので、それが主人公の分人の構成と比率の変化として圧縮的に経験されるのだと思います。

日常空間では小説のような典型的な人物とだけ接しているわけではないので、それほど分人の変化をダイナミックには経験できない部分もあるでしょうね。

 

▶︎【後編】他者性の尊重と分人主義 

(ライティング:池田きょうこ/ 編集:ぐみ / 協力:安藤瑞穂、大田由紀、コルンジックさやか、吉田歩美)


※ この対談は、2021年11月14日にゲンロンカフェ主催のトークイベントとしてインターネット配信された番組の一部です。同番組は、放送プラットフォーム「シラス」の「ゲンロン完全中継チャンネル」にて、2022年5月14日までアーカイブを公開しています(有料)。以降の再配信やアーカイブの視聴については、ゲンロンカフェHPをご確認ください。

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