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平野啓一郎×中村文則──ドストエフスキー、小説を書くことについて【文学の森ダイジェスト】

text by:平野啓一郎

平野啓一郎をナビゲーターとして、古今東西の世界文学の森を読み歩く文学サークル【文学の森】

2024年3月は、小説家・中村文則さんをゲストにお招きし、「ドストエフスキー」および中村さんの最新長篇『列』をテーマにライブ配信を行いました。

▶︎置かれた状況を書くことで人間を表現する
▶︎ドストエフスキーには現代性がある
▶︎翻訳でもわかる「ドストエフスキーらしさ」
▶︎この世界が何なのか知ることが長生きのモチベーション
▶︎小説家志望者への3つのアドバイス


置かれた状況を書くことで人間を表現する

平野啓一郎(以下、平野):中村さんとは飯田橋文学会や、名古屋で開催されたドストエフスキー学会でお会いしていますが、対談は今回が初めてです。どうぞよろしくお願いします。まず中村さんの最新作『列』についてお伺いしたいと思います。並んだ先に何があるかもわからない行列に並び続けるという象徴的な設定ですが、どのように着想したのでしょうか。

中村文則(以下、中村):人間が置かれているその状況を書くことにより、人間そのものを表すという、文学の手法があります。カフカなら虫に変身してしまうという状況、安部公房なら「砂」という不毛なものに囲まれている状況を書くことで、「人間とは何か」を炙り出しました。これを前からやりたいと思っていて、コロナの閉塞感の影響もあり、「行列」というものが浮かびました。

平野:現代社会は、あまりにも情報量が増えすぎていますよね。例えば殺人事件を書くにしても、昔の閉鎖的な村だったら、その村の中の人間関係くらいしかない。でも現代は、マスメディアが加わり、ネットの世界にも波及し、3倍も4倍も情報量があり、さらに過去も調べると、とんでもない規模になってしまう。かといって、具体的な話を削ってしまうと、現代社会を書いていることにはならないというのは、僕自身の創作の悩みでもありました。

中村:この作品では、「列に並ぶ」というメタファーを使うことによって、比べ合うことを表現しようと思いました。まさに今、SNSの時代なので、人類史上最も、人間がお互いに比べ合ってる時代に突入しています。この、比べ合うとか、羨ましくなってしまうとか、人より上に立ちたい優越感といった現代の感覚を、「列」で表してみようと思ったんです。書く対象を絞るという意味において、気持ち的には原点回帰に近いんです。

平野:今年、安部公房が生誕100年を迎えたことを機に、あらためて読み直して、半分はリアリズムのように、半分は抽象的な話として書くというのは、物語を圧縮する手法として有効ではないかと思っていました。そんななか、中村さんの『列』が刊行されて、ちょっとやられた感がありました。

中村:いえいえ。今日のテーマにもつながる話なのですが、ドストエフスキーは自分が世界的な作家になると知らないまま亡くなっているんですよね。そういうのを見ると、作家の真の評価は死後だと思うようになったんです。それで、「比べ合う」ということを結構客観視できるようになった結果、『列』が書けたのかもしれません。もっと周りを気にしていた若い頃には書けなかった作品だと思います。

平野:わざわざ言わないだけで多くの人は、人と比べることとか、自分の状況に対する煩悶、嫉妬の苦しさを抱えていると思います。それに対しどう克服していくかというところまで、この作品はカバーしていると思います。『列』については聞きたいことはまだまだありますが、今日のメインテーマであるドストエフスキーのお話に移りたいと思います。

 

ドストエフスキーには現代性がある

平野:名古屋のドフストエフスキー学会で、中村さんは『白痴』をテーマに発表されていましたね。『白痴』は恋愛小説の最高傑作という人もいますが、ドストエフスキーの五大長編の中で、中村さんにとって『白痴』はどのような作品でしょうか。

中村:学会でもお話したのですが、ナスターシャが自分に加害行為をした相手に反抗するという意味で、『白痴』は初の「Me too小説」かもしれない、その萌芽がある小説だと思っています。当時のロシアには、女性の権利を考える風潮があり、ドストエフスキーも敏感に反応をしていたのだと思います。ただ本来はナスターシャは救われるべきですが、小説の構造的にそれができず、ジレンマを感じます。神について言えば、ドストエフスキーはキリスト教の信者なんですが、無神論のことも異端のことも、むしろそっちが好きなのではというぐらいの熱量で書いています。そういったところも、彼の現代性を表していると思います。

平野:囲いもののようなナスターシャを、受け止める側のムイシキンがもっと精神的に落ち着いてキャラが首尾一貫していれば、崇高な恋愛小説になるのだと思います。ほとんど無意味に近いような会話が連綿と続いていくのを読まされると、ムイシキンがだんだんと壊れていく過程に妙に説得力があるんですよね。重要な挿話が自由に組み込まれているところが19世紀の小説だなあと思う所以ですが、逆にそれが現代的であるかもしれず、構造的に不思議なものを感じる小説なんですよね。

 

翻訳でもわかる「ドストエフスキーらしさ」

中村:ドストエフスキーの文体は、不思議ですよね。翻訳なのに、ドストエフスキーの文章ってわかるんですよ。細かい言い回しに、ドストエフスキーならではの個性がある。こういう海外の作家って僕は他に知りません。

平野:ドストエフスキーから影響を受けた作家は多くいて、僕自身もその一人ですが、ここまで長く、しつこい書き方はなかなかできないですよね。

中村:大尊敬はしているけど、近くにいたら面倒くさい人だと思います。

平野:『列』で刈り込んだ圧縮技術で、一度、中村版『白痴』を作ってみてください(笑)。

中村:風景描写バッサリいきますよ(笑)。今の日本で僕たちが同じように書くと、昼ドラみたいになってしまう部分もありますね。当時としては、これがリアリズムなんですけれど。

平野:純文学の立場から高踏的に一種のメロドラマ性を批判するのは、19世紀の小説をあまり読んでいないからでは?と思ってしまいます。フローベールだって、『感情教育』にせよ、『ボヴァリー夫人』にせよ、恋愛の部分はそういうものです。

中村:音楽がお好きな人がいたら、ショスタコーヴィチの音楽がむちゃくちゃ合うと思いますね.。ドストエフスキーを読みながら、ショスタコーヴィチの「ヴァイオリン協奏曲」か、「交響曲1905」を聞いていると、あの狂おしいメロディと相まって、芸術の極みにいるような感じになりますね。とても得がたい経験です。

 

この世界が何なのか知ることが長生きのモチベーション

中村:ある時、ドストエフスキーができないことは何かと考えたんですね。その結果、ドストエフスキーは最新の科学や物理学を知らないので、これを使って書けばいけるぞと発想して書いたのが、『教団X』という小説です。

僕はこの世界に対してある執着があるんです。この世界が何かを知りたいんですよ。僕が書く小説も、その探求という側面があります。『列』にも書いた、ホログラフィック原理が、今一番近いとは思うんです。元々はこの世界も2次元のデータで、それをホログラムみたいに脳が3次元に処理してるだけではないかというものです。でもここでも謎があって、その2次元のデータみたいなものが何であるのか突き詰めると、結局何でこの世界があるのかの問いに等しくなる。神の可能性もまた出てきます。その辺を、物理学が解明してくれないかと日々待ってる感じですね。

平野:物理学の世界には新しい学説が次々と出てきていますから、生きてる間に「これが答えだ」っていうところまでたどり着けるのかどうかわかりませんね(笑)。

中村:そうですね。だから、ある程度の情報で、自分なりに、間違ってもいいから「多分世界はこうだ」っていう結論を、一応出してから死のうっていうのが、長生きのモチベーションです(笑)。

平野:古井さんも、「小説は結局、時間感覚と、空間感覚を突き詰めていくしかないんじゃないか」というようなことをおっしゃっていました。究極的には、存在論的なところに行き着くのかなと思いますね。

 

小説家志望者への3つのアドバイス

中村:このなかには小説家志望の方もいらっしゃると伺いましたので、僕が小説家になる時に意識したことをお話ししたいと思います。一つ目は、当たり前ですが、人より多く努力することです。

二つ目は、自分の影響、個性を出すこと。デビューする前は、小説家になるにはどうしたらいいんだみたいなことばっかり考えて、書きたくないことを書いていたんです。でもそれをやめて、時代云々は関係なくて、自分が好きな文学、それを出せばいい。つまり、その個性って結局読んできたもののある意味では複合と、プラスアルファの自分だと思うんです。

最後の三つ目は、自分の本を客観的に判断すること。パソコンの画面上で見ると、客観的に見えないので、一度プリントアウトして寝かして、客観的に読むという作業をする。「これは文壇を揺るがす作品だ」という前提で読んでみると、「いや、これじゃ揺るがないぞ」「じゃあどこを直そうか」と冷静になることができます。

平野:「文壇を揺るがす小説かどうかを客観視する」というのは、面白い視点ですね。確かに、小説家になりたいと思っている人ができてないことの一つだと思います。実は僕も作品を書くとき、これが本として刊行された後、「平野啓一郎の新作、読んだ方がいいよ! めっちゃ面白かった」という会話を読者がしている場面を想像できるか、ということを考えるんですよ。やっぱり、自分が発表しようとしているものが、何らかのリアクションを期待できるとを想像しながら、作品を考えなければならないと思うんですよね。

中村:そうですね。これまで飯田橋文学会などの座談会で平野さんとご一緒したことはあったのですが、今日は平野さんと初めての文学の対談が実現できて大変嬉しかったです。

平野:中村さんの小説を読むたび、「自分と同世代の人が書いた作品だな」と共感します。今日はその辺をお伺いできたのでよかったです。お忙しいなかどうもありがとうございました。

(構成:水上 純)

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