平野啓一郎をナビゲーターとして、古今東西の世界文学の森を読み歩く文学サークル【文学の森】。
2023年10月は、安部公房『箱男』をテーマにライブ配信を行いました。
ダンボール箱を頭からすっぽりとかぶり、都市を彷徨する箱男。一切の帰属を捨て去り、存在証明を放棄することで彼が求め、そして得たものは…?
▶︎安部公房作品がこだわった「アイデンティティ」の問題
▶︎マスクで顔を隠すと気が楽になるのは?
▶︎「箱」の機能に着目して読むと見晴らしが良くなる
安部公房作品に描かれる「アイデンティティ」
──「本当の自分」は存在するのか?
——平野さんが安部公房作品を読み始めたのはいつ頃でしたか?
平野:最初に読んだのは大学時代です。まず『砂の女』を読み、『他人の顔』『箱男』『燃えつきた地図』と読んでいきました。その後、小説家としてアイデンティティを主題とした作品を書くなかで、安部公房作品を思い起こし、あらためて読みました。
僕は小説家として作品を書くなかで、「これが本当の私だ」と一つに絞る”本質主義”に対抗する、”分人主義”を提唱するようになりました。対人関係によって異なる様々な自分すべてが「本当の自分」であり、唯一無二の本質は存在しないという考え方です。
『箱男』という作品で、安部公房は「登録」ということに非常にこだわっています。社会が市民を管理するには、一つの固有名詞と、一つのアイデンティティに人間を紐付けて、公文書に登録するのが最も効率的です。管理社会は市民をいかに一元的に統合していくかという圧力をかけ、それに抵抗を感じる私たちは、一なる自分へ固定された状態から、いろんな場所でいろんな自分を生きていく方向に、アイデンティティを自由に拡散させようとする。管理と自由、これは一種のイタチごっこのようなものだと思います。
それでは現代において、何によってアイデンティティの統合を担保するのかとなったとき、一番わかりやすいのはやはり「顔」です。空港などでも機械認証が導入されて、瞬時に判別されるようになってきました。そうなると、分人主義の観点を導入しても、顔によってすべてが統合されてしまいます。
安部公房の作品でも、「顔」というものが非常に大きな役割を果たしていて、『箱男』もそうですが、『他人の顔』という作品では、自分の顔を失って他人の顔をつければ他人になれるのか、という主題が実験的に書かれています。
見ることは一種の暴力性である
──マスクで顔を隠すと気が楽になるのはなぜ?
平野:『箱男』のもう一つの重要テーマは、”見る、見られる”関係です。他者から見られることなく、内側からのぞき見る機能が箱に期待されています。
この主題は、サルトルの影響も大きいと思います。『存在と無』でサルトルは、「見ることは一種の暴力性である」と書いています。資本主義が発展した社会では、人間の価値は他者からの社会的な評価の中で浮き沈みするようになり、他者にどのように認識されるかが死活問題になります。
見ることは、ある認識のフレームでその存在を規定してしまうことであり、そこにある種の権力性が備わります。見る側の方が強く、見られる側は弱い立場に立たされるんです。
『箱男』の主人公は、ダンボール箱を頭からかぶることで、他者からの勝手な眼差しを浴びないで済むようになります。自分は見られないという安全な立場で、相手を一方的に見ることができるので、他者からは「あいつはこういう人間なんだ」と評価されないでいいわけです。
──コロナ禍が落ち着いても変わらずマスクをつけ続ける人が多いと聞きますが、この話に通じるようにも思いました。
平野:顔を隠すことで気が楽になるというのは、実際にありますよね。僕自身、コロナ禍でマスクを着けるようになってから、服装をあまり気にせず地下鉄に乗るようになりました。顔を隠すと自分のアイデンティティと結び付けられずに済むので、どうでもよくなっていくんですよね。外見をプロテクトすることで内的な自由を確保するという意味では、「箱男」に通じる話ですね。
「箱」の機能に着目することで理解が深まる
──ところどころ難解なところもあり、どう解釈すれば良いのか迷うところも多い作品ですが、読解の見晴らしを良くするコツはありますか?
平野:この作品を読むにあたっては、箱の「機能」に着目してみることが有効ではないかと思います。
「箱とは何ですか?」と問われると答えづらいですが、「箱にどういう機能がありますか?」と聞かれると答えやすい。例えば、バラバラのものをひとまとめにしておく機能がまず箱にはあります。また、中身をプロテクトする機能もあります。ある存在を隠し不可視化するという機能もあり、匿名化することができます。
このように整理して、作品の各エピソードが何の機能を表現しているのか注目すると、見晴らしがよくなるのではないでしょうか。
僕自身は、箱の「空っぽ性」みたいなものがこの作品を読み解く鍵になるのではないかと思っています。人間は箱を見ると、「中に何かが入っているはずだ」と思ってしまいます。しかし必ずしも中身があるとは限らないですよね。
同じように、人間には普遍の本質のようなアイデンティティがあるのか? 実は箱の外観、つまり社会的に認識されてるようなレベルがあるだけで、中身に本質的な何かがあるわけではないんじゃないか?というようなことも考えながら読むこともできます。
こういう作品は何が正しいというのもないような作品ですから、ご自身の自由な読み方をぜひ楽しんでもらえればと思います。
(構成、ライティング:水上 純)