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【文学の森ダイジェスト】平野啓一郎が大江健三郎『セヴンティーン』『不意の唖』を語る

text by:平野啓一郎

平野啓一郎をナビゲーターとして、古今東西の世界文学の森を読み歩く文学サークル【文学の森】

4月,5月の「深める文学作品」は、今年3月にご逝去された大江健三郎さんの傑作短篇『セヴンティーン』『不意の唖』です。

衝撃的な文体で17歳の少年の心情が語られる『セヴンティーン』と、緻密な構成力が光る『不意の唖』。平野啓一郎が「読んでうんざりしてしまった」というほど圧倒的な才能に満ちた初期短篇から、特に衝撃を受けたという二作を読み深めました。

今回の内容は…

▶︎大江文学との衝撃的な出会い
▶︎生前、大江さんから受けたアドバイス
▶︎『不意の啞』の素晴らしさは構成力に
▶︎『セヴンティーン』の死の捉え方に強く共感した
▶︎大江作品、おすすめの一冊目は?


大江文学との衝撃的な出会い

——大江健三郎さんが亡くなられた時はどういうお気持ちでしたか。

平野啓一郎(以下、平野):関係者を通じて、どういうご様子かは伺っていましたが、命に関わるという話は耳にしていなかったので、大変ショックでした。日本の文壇にとって非常に大きな意味を持つ方であり、僕にとっても大きな存在でしたので、喪失感がとても大きかったです。

 ——大江さんの作品との出会いについてもお聞かせください。

平野:大江作品を読み始めたのは高校三年生の時です。当時の高校の先生が、「次にノーベル文学賞を獲るとしたら大江健三郎だ。」と力説していたのがきっかけで、『燃えあがる緑の木』を読み始めました。ですがこれは大江入門としては適切ではないというか(笑)、相当熱心な大江読者でないと読み通せないところがあり、歯が立ちませんでした。やや関心が薄れかけたのですが、大学に入学して、熱心な大江読者に会い、初期作品から読むべきだとアドバイスを受けたんです。それで、新潮文庫の『飼育』『死者の奢り』『不意の啞』が入っている巻から読み、大きな衝撃を受けましたね。

 

大江さんのデビューによって筆を折った文学青年が続出

平野:初期作品は、まず主題の選び方からはじまって、非常に緊迫感のある文体、豊かな詩的なイメージと瑞々しい感受性、社会との緊張関係を表現したところなど、才能に満ち満ちていて、それに圧倒されてしまいました。

不思議なもので、三島を読み始めた時は「こういう文章や小説を書いてみたい」と憧れを抱き、小説家になりたいという気持ちを強くしたのですが、大江さんの初期作品を読んだときには、「小説とはこういう人が書くものだ、自分なんかが書くもんじゃない。」という感じで、すっかり自信喪失しました。 これは僕だけじゃなくて、大江さんの小説をリアルタイムで読み、自分は駄目だと諦めた作家志望者がたくさんいたという話が、伝説のようになっています。古井由吉さんでさえ、大江作品を読んで小説家になるのをためらい、しばらく大学の先生をされていた、という話です。意外なところでは、最近亡くなったムツゴロウさんも、大江さんの作品を読んで小説家の夢を断念したそうです。

 

「30歳になるまでは…」という大江さんからの伝言

——大江さんご本人と初めて会われたのはいつでしょうか?

平野:2006年に「群像」で大江さんとの対談企画がありました。その直前に大江さんの講演があり、楽屋にご挨拶に行ったのが初めての対面となりました。その時は僕の顔を数秒まじまじと見つめられ、かすかに微笑みを称えるような表情をされて、「今、これを読んでいるんです」と、英語版のサイードの本を見せてくださいました。そのご様子から、ああ、大江健三郎に自分が会っているんだなと、感慨深かったです。

時間が遡りますが、芥川賞を受賞したときに、当時読売新聞で記者をされていた尾崎真理子さんを通じて、伝言をいただきました。「30歳になるまでは、自分が書きたいものしか書いてはいけない。それさえ守ることができれば、あとは大丈夫だから。」ということでした。僕のことを気にかけてくださったということに驚きましたが、それは墨守しました。

——「30歳まで書きたいものしか書いてはいけない」というのは、どのような意味が込められいるんでしょう?

平野:30歳までにもみくちゃになると、その後の作家としての人生がぐちゃぐちゃになってしまうから、30歳までは自分のやりたいことは何なのかよく考え、それができる仕事の仕方と環境を作ることが重要で、それができれば、その後の方向付けも自ずとできるということではないですかね。

 ——そのアドバイスに従って何かアクションをしたことがありますか。

平野:僕が第2期に出した短篇集は、実験的で、難解すぎるという評判も多かったのですが、大江さんの助言を思い出して、気が済むまでやりました。あの時期があったからこそ第三期以降があるとも思うので、大江さんのアドバイスは的確だったと思います。

『不意の啞』の素晴らしさは構成力にある

——この作品を読んで、大江健三郎ってこんなに読みやすい作品も書いているのかと驚きました。

平野:大江さんが23歳の時に書いた作品で、なんというか、才能がむき出しになっていますよね。時代的な問題が非常にシャープに捉えられていて、僕が自信喪失した作品のひとつです(笑)。

まず主題が面白いですよね。芥川賞受賞作の『飼育』が対戦中のことを描いた作品なのに対し、『不意の啞』は戦後です。GHQの支配が地方の田舎にまでどう影響したのか。地方の人の複雑な態度と、ある日本人の滑稽で醜い人間性を、批評的に描き出しています。

そして注目すべきは、小説としての構成力が比類ないことです。丁寧に読んでいくと、物語がかっちりとしたシンメトリカルな 構造の中に収まっていて、その構成力に衝撃を受けました。その運びにわざとらしさがしなくて、いかにも一気呵成に書いたようにも見えますが、非常にうまく構成されてます。

——シンメトリカルというのは、具体的にどのようなところでしょうか?

平野:まず冒頭、外国人を乗せた1台のジープが夜明けの霧の中を走ってくるのを、見守っていた少年が一気に駆け出すという場面から始まります。そして最後は、村から出ていくジープを、まるで存在しないかのように村人たちが黙って送り出す。

その対称関係だけではなく、この小説を読み終わった後にイメージしてみると、小説全体が明と暗に二分されているのに気がつきます。前半、昼の場面では、非常に緊迫感のある場面だけれども、明るい滑稽さもある。一方で、後半、通訳の男が殺される夜の場面は底知れない暗さがある。その強烈なコントラストが、小説全体に劇的な効果をもたらしています。

 

『セヴンティーン』の主人公は、大江それとも三島?

 ——『セヴンティーン』はどこを切り取ってもパンチのある文章で、『不意の啞』とはまた全く違う作風ですね。

平野:1961年、大江さんが26歳の時の作品で、やっぱり傑作だと思います。戦後世代の若者が天皇主義者になっていく過程が、徹底的に戯画化されて描かれています。滑稽を極めて書かれているんだけど、クラスメイトから笑われたりとか、議論で負けてしまったりする場面は、共感してしまう。読者の心を捉えて離さないような人物像でありながら非常に戯画化されているところが、非常にうまい作品ですよね。

また、三島が1965年以降に主題化しようとした問題が、この作品で先取りされています。三島はこの時期の大江さんの作品にかなり刺激されたと思われます。ノンポリだった三島が、急激に天皇主義へ反動化したのは、『セヴンティーン』の主人公にも通じるところがありますね。戦後世代の若者が右翼になってしまうことに対する認識は、大江さんと三島でかなり近接しているところがあります。

生々しい描写から、主人公は大江さん自身をモデルにしているのではと思われた向きもありましたが、「このような日本人でない日本人に自分が変われるのか」という『ヒロシマ・ノート』で見られるような戦後民主主義を通してなされた自己批判が、右傾化する思想の克服という本作で見られるのだと思います。この違いは、三島と大江さんとの生まれた時期が10年違うことが大きく影響しています。終戦時三島は20歳で、多くの同世代が戦死したため、加害者責任を問うのが難しいのに対し、大江さんは終戦時10歳で、第日本帝国が終わった安堵とそれに戻ってはいけないというストレートな思いが実体験としてあったのだと思います。

 

『セヴンティーン』の死の捉え方に強く共感した

平野:僕は元々『セヴンティーン』がすごく好きでした。特に、この作品に書かれている大江さんの死生観に非常に強く共感しました。僕が少年時代に抱いていた死に対する感覚は、それをいくら人に説明しようとしてもなかなか通じなかったのですが、大江さんの作品を読んで、「まさに自分が感じていることだ」と思いました。それが大江文学に強い関心を寄せた一つの大きなきっかけになっています。

眠りにおちいるまえにおれは恐怖におそわれるのだ。死の恐怖、おれは吐きたくなるほど死が恐い、ほんとうにおれは死の恐怖におしひしがれるたびに胸がむかついて吐いてしまいそうだ。おれが恐い死は、この短い生のあと、何億年も、おれがずっと無意識でゼロで耐えなければならない、ということだ。この世界、この宇宙、それは何億年と存在しつづけるのに、おれはそのあいだずっとゼロなのだ、永遠に!おれはおれの死後の無限の時間の進行をおもうたび恐怖に気絶しそうだ。おれは物理の最初の授業のとき、この宇宙からまっすぐロケットを飛ばした遠くには《無の世界》がある、いいかえれば《なにもない所》にいってしまうのだということを聞かされ、そのロケットが結局はこの宇宙にたどりつくのだ、無限にまっすぐに遠ざかるうちに帰ってくるのだ、というような物理教師の説明のあいだに気絶してしまった。小便やら糞やらにまみれた大声で喚きながら恐怖に気絶してしまったのだ。

──大江健三郎『セヴンティーン』(岩波文庫『大江健三郎自選短篇』より)

自分が死ぬ瞬間、肉体の痛みへの恐怖ではなくて、死に続ける時間の長さが何億年と途方も無いことを考えるのが恐ろしい、という感覚。今でも、死を考えたときの恐怖感の一番大きいものはこれですね。

死の恐怖心を克服するために、主人公は、「おれが死んだあとも、おれは滅びず、大きな樹木の一分枝が枯れたというだけで、おれをふくむ大きな樹木はいつまでも存在しつづけるのだったらいいのに、とおれは不意に気づいた。」という発想に至る。天皇と自分が結びつき、私心をなくして大義のために生きれば、自分という個体が滅びても、自分の存在は、日本あるいは天皇と結びついたまま生き残り続けるんだという発想になっていきます。死後、自分の存在の受け止め先があると思うと、現実世界の規範が無効化されてしまうというのが、この後の展開です。木と関連づけられた死と生のイメージは、まったく違う形で『燃えあがる緑の木』でも確認できますが。

コンプレックスまみれだった若者が、右翼の制服を着た途端、社会から恐れられて、一目置かれ、自尊心を回復していく。彼とその世界を一体化させていくプロセスが気持ち悪いぐらいの生々しさで描かれていますね。

 

大江作品、おすすめの一冊目は?

——今回の読書会を機に、大江文学を読み進めていこうとしている方に向けて、平野さんのおすすめ作品を教えていただけますか?

平野: 誰もが好きな大江作品というと、『芽むしり仔撃ち』だと思います。閉鎖的な空間に閉じ込められた受難者としての少年たちの物語ですが、後世のドラマなどにも影響を与えている素晴らしい作品だと思います。

あとは、『新しい人よ目ざめよ』ですかね。世界中で評価された大江作品といえば『個人的な体験』ですが、今となっては『新しい人よ目ざめよ』の方が好きですね。 

(構成・ライティング:田村純子)

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