平野啓一郎をナビゲーターとして、古今東西の世界文学の森を読み歩く文学サークル【文学の森】では、3か月ごとに「深める文学作品1冊」をテーマとして定めています。
1月クールの「深める文学作品」は、アンナ・ツィマ『シブヤで目覚めて』。日本と日本文学を愛するチェコ人作家が発表し、ヨーロッパで文学賞を総なめにした話題の一冊です。この記事では、平野啓一郎が作品を解説したライブ配信のダイジェストをお届けします。
今回の内容は…
▶︎テーマ作の魅力
▶︎設定を書きすぎないこと
▶︎海外文学に目覚めたきっかけ
▶︎芥川賞の選考基準とは?
平野啓一郎(以下、平野):「文学の森」に海外の作家をお招きする機会は貴重で、一昨年には韓国人作家のハン・ガンさんをお招きしましたが、今回のクールではチェコ人作家のアンナ・ツィマさんに来ていただけることになりました。『シブヤで目覚めて』は日本を舞台にした作品で、チェコ文学に馴染みがない人でも面白く読めると思います。ヨーロッパにおける日本文学研究は、三島や谷崎が主流ですが、アンナ・ツィマさんは新しい世代で、たとえば新感覚派の横光利一に興味を持つなど、この世代が日本文学にどのような関心を持っているのか、よくわかる作品ですね。
【この小説の読みどころ】
平野:『シブヤで目覚めて』は「分身」がテーマになっています。ドッペルゲンガーという現象は、ドストエフスキー、スティーヴンソン、ポーなど、昔から様々な作家によって書かれてきました。訳者あとがきで阿部賢一さんも触れていますが、「ジキルとハイド」のように、病的で、内面的な葛藤が、否定的な面と肯定的な面に分かれ、二つの人格として現れるというのが典型的なパターンです。その系譜上で、この小説の新しさは何かというと、日本に居続けたいという〈想い〉が強すぎて、チェコに帰るべき自分と分裂してしまうというところです。
分裂してしまった自分と再び一体化するまでのストーリーが主軸として展開されています。分身同士がもう一度出会えれば、おそらく一体化できるだろうという希望的な方向へと話は進みますが、その解決方法として、主人公ヤナは、必死で日本に留学しようとします。「研究対象の川下清丸が卒論に値するぐらいの作家であれば、日本に留学できるかもしれない」という設定が面白いです。全くウェットではなく、妙に現実的な、日本文学を研究する人の問題と、非現実的な分裂の話が重なっていき、面白みを増していきます。
【設定を書き過ぎなかったのがお手柄】
平野:この作品のお手柄は、設定を細かく書き過ぎなかったことだと思います。主人公から分裂した、日本への強い〈想い〉の分身がどういう風に存在しているのか、現実的な行動は詳しく書かれていない。それが非常に良いですよね。設定や詳細を大胆に省いたことで、小説としてうまくいったのだと思いますね。
—— 必ずしも細かく書き込めばいいというわけではないのですね。
平野:設定を緻密に説明してしまうと、この小説特有の”軽さ”が出てこないんじゃないですかね。
何を主眼に書きたいのかによっても変わると思います。例えば僕の『空白を満たしなさい』という小説も、死んだはずの人が生き返ってくる物語ですが、これがSFだったら、何がどういう仕組みで帰ってきたのか、何か別次元のパラレルワールドがあって、そこで物理的な何かで繋がっていて、というようなことまで書かなきゃいけないでしょう。SFの読者はそういう理屈づけが面白いのだと思いますが、僕は、そういう舞台設定にはあまり関心がないんです。それやると、読者は設定自体を延々と読まされることになる。だから、生き返る仕組みについては全然書いてないのですが、書いてないからこそ成り立っている話だと思います。
【海外文学に目覚めたきっかけ】
読者からの質問:主人公ヤナが村上春樹さんの『アフターダーク』を読んで日本文学に目覚めたように、平野さんご自身が海外文学に興味を持ったきっかけとなった作品や作家はありますか。
平野:僕は十代の頃に三島由紀夫の文学に出会い、大きな影響を受けました。その三島がすごく海外文学の影響を受けていて、多くの作家に言及していたことが、興味を持つ大きなきっかけになりました。
特に三島が三十代前半に『裸体と衣裳』という日記を書いていたのですが、僕は戦後の日記文学の中でも、最高傑作の一つだと思っています。三島が結婚して、『金閣寺』もすごく評判になって、作品もどんどん映画化され、文壇でもメディアでも寵児のような扱いで、気力も充実していた時期でした。その『裸体と衣裳』の中に、モーリヤック、オスカーワイルド、フローベールなどの作品のレビューが、三島自身の覚書として書かれています。それが、僕が中学時代に文学を読み始めた頃の、良きガイドブックとなりました。
僕の世代でモーリヤックなんて読んでいる人はほとんどいないので、その作品について語り合えたのは、大江健三郎さんくらいです。僕は三島に導かれてモーリヤックを結構読みましたが、『テレーズ・ディスケルー』や『愛の砂漠 Le désert de l'amour』は傑作だと思います。フランスの19世紀以降の文学の頂点だと思うくらい、本当に上手い小説を書く作家です。
僕は文庫少年でしたので、岩波文庫の海外作品をずっと読んでいました。昔の岩波文庫は、表紙に内容の要約のようなものが書いてあるんです。その要約が見事で、それを読んだだけで、これは感動するに違いない、いやもう半分感動してる、という気持ち感じになりました(笑)。それで一冊岩波文庫で外国文学をずっと読んでいこうと決めて、読むたびにリストをチェックしていって、本棚にピンク色の背表紙が一段二段と揃っていくのが嬉しかったです。
特定の国が好きということはなかったのですが、フランスの19世紀の象徴派の詩を、鈴木信太郎や小林秀雄が、非常に華麗な漢語をちりばめた美文で翻訳していて、その辺のフランス文学の翻訳体に魅了され、フランス文学が好きになったという経緯がありました。
【芥川賞の選考基準、小説の新しさや文体について】
——先日、芥川賞の発表がありました。平野さんも選考委員を務められていましたが、文学賞の選考では、どういう作品を推したくなるのでしょうか。
平野:自分にはこういうものは書けない、と思うような作品を推したくなります。今回、僕が推した安堂ホセさんの『ジャクソンひとり』も、セクシュアリティの描き方は勿論ですが、独特なテンポ感や、対象との距離感などが新しいと感じました。
自分の関心やスタイルに近いから評価するというのは、僕も他の選考委員もないんです。僕のデビュー作『日蝕』も、宮本輝さんみたいな凡そ異なる作風の選考委員も褒めてくれました。古井さんのように、中世末期の神秘主義に関心を持っていたような選考委員に認められたのも、勿論、うれしかったですが、宮本さんの評価もとても心強かったです。
ただ難しいのは、いい作品でも大きな難点があると、なかなか受賞には至らないんですね。『ジャクソンひとり』も、終わり方に難があって、そこに引っかかった選考委員が多かった。実は僕もそうです。「でもいいところいっぱいあるじゃないですか」ということには、あまりならないですね。ただ、完成度重視となると、従来のスタイルで書けば、疵なく完成された作品を書きやすいですから、難しいところです。芥川賞は新人賞ですから、新しい世界を切り開こうとしていく作品を評価したいとは、一選考委員として思っています。
音楽でも文学でも、あるスタイルが広まっていくと、後発でそのスタイルを遥かに上手く使った作品ができるけれど、退屈なんですよね、それは。だから、ぎこちない部分があっても、「なんだこれは」と思わせてくれるようなチャレンジングな姿勢を評価すべきではないかと思います。
——「なんだこれは」という作品は、一歩間違えれば、奇をてらっているだけにも見えてしまいます。そこにはどういう違いがあるのでしょうか。
平野:本当に書きたいテーマであるかどうかでしょうね。あとは、上手く書けているかどうかだと思います。小説は究極的には、文章の魅力です。欧米の編集者は”voice ”と表現したりしますが、日本人は「文体」というのが好きですね。
芥川賞を受賞した遠野遥さんの『破局』は、ある種の過剰さや気持ち悪さがとても上手く書けていました。カミュの『異邦人』も同様ですが、その違和感が上手に表現され完成度が高いと、これは何ごとかと思わされます。
(構成・ライティング:田村純子)