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〔文学の森ダイジェスト〕森鷗外『阿部一族』を政治思想と翻訳の観点から読む(ゲスト:金杭さん)

text by:平野啓一郎

平野啓一郎をナビゲーターとして、古今東西の世界文学の森を読み歩く文学サークル【文学の森】では、3か月ごとに「深める文学作品1冊」をテーマとして定めています。その作品に関し、1か月目は「平野啓一郎が語る回」、2か月目は「平野啓一郎がゲストと語る回」、3か月目は「読者と語る回」を開催します。

4月クールの「深める文学作品」は、森鷗外『舞姫』『阿部一族』。この記事では、5月27日に開催したライブ配信「平野啓一郎が『阿部一族』を政治思想と翻訳の観点から読む」のダイジェストをお届けします。

ゲストは韓国の延世大学教授で、政治思想史を中心に研究されている金杭(キムハン)さんです。


 

【文体と内容が密接に結びついている】

平野(以下、平野):日本近代文学で漱石、鷗外はよく並び称せられますが、一般的には漱石の方が遥かによく読まれています。韓国では日本文学が多く翻訳されていますが、韓国の日本文学の分野において、鷗外の位置や存在はどういったものでしょうか。

金杭さん(以下、金):韓国では森鷗外の作品はほとんど翻訳されており、今日取り扱う『阿部一族』が表題の短編集もあるんですよ。今回の対談準備で、韓国語の『阿部一族』を読みました。韓国語翻訳は、完全に現代語で書かれていますから、炭酸の抜けたコーラみたいな感じで、本当に拍子抜けするんですよ。鷗外のその魅力はやはりこの渋い文体にあるのだということが、翻訳されていることでつくづく感じます。このナラティブの力は大きく、鷗外の硬質で独特なゴシック的な文体で語られないと、鴎外の世界感が全然伝わってこないという経験を今回しました。僕は鷗外の代表作をほとんど日本語で読んできたんです。

平野:鷗外の史伝になると、地の文は中国の文体を範として書かれ、非常に格調高い文体です。一方、会話の部分は、派手なやりとりはなくそっけないですが、意外と微妙な心理の綾、感情の機微に触れるようなやりとりになっており、翻訳がかなり上手くないと、その辺はなかなか伝わらないのだと思いました。

 文学は文体と内容が非常に複合的に混じり合って成立しているものだから、この問題は常にあり、日本文学は翻訳されると別物になってしまうことがよくあるそうです。アメリカの日本文化研究所の方が授業をしてるときに、川端康成の作品を英語翻訳すると、何故このような通俗的な話がノーベル賞を受賞するのかという疑問を呈する学生が結構いるそうです。

 鷗外と川端康成の文体は正反対に違いますけど、どちらも翻訳しにくいという意味では同じです。鴎外自身はドイツ語もよくできたし、ヨーロッパ系の言語のリズムや構文を熟知しており、それまでの近代以前の江戸時代の黄表紙本などの文体に比べると、非常に欧米化された日本語だと思います。とはいえそれが漢学の素養に基づいて組み立てられているので、ある意味不思議な、純日本的文体というよりもハイブリッドな文体だと思うんですよね。

金:おっしゃる通りハイブリットな文体ですね。僕が意識して読んでるから一層感じられるのかもしれないのですが、鷗外の文体にはドイツ語の語順が非常に感じられるんですよ。坪内のような同時代の文体よりは、鷗外の文体はリズムが一定で、非常に読みやすいです。

 

【「バカ」な題材をわざと選んだ

平野:『阿部一族』の金さんの感想はどうですか?

金: 文体にまどわされて、壮大な話かと思って、辞書を引きながら読んだのだけれど、本当にバカな話なんですよね。殉死という制度のよしあし以前に、前の殿様の一周忌の席でああいう(阿部弥一右衛門の嫡子・権兵衛が自らのまげを切る)行為をしたり、一家が立てこもって内乱状態になったりして、よくわからない。これらを鷗外はどう解釈していたのか想像力をかきたてられます。

平野:鷗外は、わざと、今の感覚では理解し難いことを題材に選んでいますね。保守派の論客には、武家社会独特のエートスを描いていると解釈する人たちもいましたが、僕はちょっと違うと思っています。『阿部一族』に先立って書かれた『興津弥五右衛門の遺書』にもいえることですが、当時の武士が立派だと書いているのではない。イデオロギーに完全に同化した人物という、近代的な合理的な視点でみるとそれは愚かで滑稽にしか思えないことを書いている。鷗外自身は忠孝的な価値観がそのまま引き継がれた軍隊という組織にいて、その中で組織図通りに行動していた。その完全に国家的なイデオロギーに忠実に生きる人間の矛盾をかなり強く感じていて、しかも近代になったにもかかわらず軍隊という組織には忠孝の精神が生き延びている。それを敏感に感じ取るものがあったのではないかと思います。

 

【ポイントは「恥の意識」

金:同感です。いわゆるサムライ精神への哀愁はまったくない。殿様への人格的な忠誠があるが、それ以上の上位の規範はない。西洋的な枠組みのように、殿様が間違ったことをしたときに反逆をすることはなく、関係がねじれたときに、下級武士は結局、すねてしまう。単に人間が小さいとかではなく、前近代的な規範意識がどれだけ微弱だったかを鴎外は見せたかったのではないでしょうか。

平野:日本でも江戸時代に超越的価値観を備えた朱子学を体制維持のイデオロギーとして導入していきますが、そういうことを吸収した知的な武士は一部にすぎず、普通の武士たちを支えていのは、もっと単純化された忠孝です。そして、先代の殿様が阿部弥一右衛門に殉死を許さなかったのは、なんとなく嫌いという話なんですね。深い意味がない。それに対して、周囲から批判的な意識というのもまったくない。この小説は日本の封建制度が最も完成された時期の話ですが、この頃は武家社会のエートスが批判精神を兼ね備えていなかった、というのも鷗外の着眼だと思います。

金:今回読み終わって、興味深かったのは、個人のメンツです。阿部弥一右衛門は殉死を許されなかったとき、殿様に尽くせず悔しいとなるのではなく、世間の視線が耐えられずに死ぬ。息子も家督の石高が減らされて不平不満を感じる。ただメンツなんですね。

平野:とにかく恥を被るということが大きなストレスでした。西洋のように、超越的な何かに対して感じる罪悪感とは違う。忠孝の規範意識がすみずみまでいきわたっていた時代の恥という意識にピンとこないと、登場人物たちの行動が理解できないという面もありますね。

 

【鷗外の作品には英雄が登場しない】

平野:鷗外のように社会構造の中から人間の生を考えていこうとすると、英雄的な能力をもっていて、その人個人の能力によって人生を開拓して、困難を乗り越えていくという物語は書けなくなる。しかし、一般にエンタメとして多くの人が求めているのはそういう人物です。社会構造と一切関係のないところから超個人的な能力に恵まれた人が、その社会に対して反逆するという物語を読みたいんだけど、鴎外はやっぱり社会について見れば見るほど、そういうことは起こりえない、と思っていたのではないでしょうか。登場人物の行動を、それは仕方なかったんじゃないかという書き方で記している。

金:『阿部一族』もそうですが、鴎外の作品は近代小説のある種のプロトコルには従っていないですね。典型的な近代小説は、主人公が成長するか自殺するかのどちらか。でも鷗外の小説は、そういうプロトコルからちょっと離れたところで作品をつくっているから魅力的。その点ではやっぱりすごい作家だと思います。

(構成、ライティング:田村純子)


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