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〔文学の森ダイジェスト〕平野啓一郎が読者の質問に答える——優れた小説のタイトル、純文学とは何か?

text by:平野啓一郎

平野啓一郎をナビゲーターとして、古今東西の世界文学の森を読み歩く文学サークル【文学の森】では、3か月ごとに「深める文学作品1冊」をテーマとして定めています。その作品に関し、1か月目は「平野啓一郎が語る回」、2か月目は「平野啓一郎がゲストと語る回」、3か月目は「読者と語る回」を開催します。

1月クールの「深める文学作品」は、瀬戸内寂聴『夏の終り』でした。

その最終回にあたる3月25日開催のライブ配信テーマは、「フリートーク」。課題作と関係のない質問も含めて募集し、平野啓一郎がお答えしました。

「優れた小説のタイトルとは何か?」「純文学とは何か?」「書いていて登場人物が勝手に言動を始めることはあるか?」「好きな小説の登場人物は誰か?」といった、文学、芸術全般に及ぶテーマについて考え直す、エキサイティングな時間になりました。

この記事では、その一部をダイジェストでお届けします。


———『夏の終り』を読む最終回ですが、今回はフリースタイルで、読者の皆さまからのご質問に平野啓一郎さんにどしどしお答えいただきます。平野さん、今夜もよろしくお願いします。

平野啓一郎(以下、平野):どうぞよろしくお願いします。1回目と2回目でかなりしっかりと作品や作家像に踏み込んだ話をしています。「文学の森」に入っていただいた皆さんと、せっかくなので、何かもっとざっくばらんにお話したり、ご質問にお答えするような機会を設けたいと思っております。課題図書に関係ないご質問も大歓迎です。今日はその最初の試みの回ということで、どうぞお気軽に質問してください。今後も、3回目はその時々で忌憚なくいろんな話をする回というふうにイメージしていただければと思います。

 

【優れた小説のタイトルとは?】

——それでは、一つ目の質問です。『「夏の終り」のタイトル表記が「夏の終わり」だったら見た目のインパクトに欠け、読みたいと思わせられたかどうかわからないなと思いました。小説家は、いいタイトルが浮かぶと内心ガッツポーズでしょうか。逆に、タイトルが決まらないまま書き始める…ということもありますか?』(カノコさんより)

平野:タイトルは、本当に難しいですね。書き上がってからタイトルを決めるのが、本来のあるべき形ではないかと僕は思います。

「書きながら何が出てくるかわからない緊張感と驚きを持って書き進めるのが小説の醍醐味だ」という価値観を語る作家が多く、たしかに、計画的に書こうと思っても多かれ少なかれ変化していくことがあるんですよね。

だから僕もそれには賛同しながらも、一方で連載ですと、先にタイトルを決めないといけません。書き始める前に決めてしまうと、小説の可能性を狭めてしまう恐れもあります。ですから連載であれば、例えば『雪国』のような、何を書いてもいいようなタイトルのつけ方が本当はいいのかもしれません。

 小説のタイトルには、その作品世界を象徴する「内向き」の意味と、書店に置かれた時に、読んでみたいと思わせる「外向き」の意味の両面があり、絶妙にそのバランスが取れているタイトル付けが重要だと思います。

 新人賞の選考でもタイトルについて話し合われることがよくあります。僕はタイトルで惹きつけられるものから読みます。女性作家つながりで言うと、『推し、燃ゆ』や『蛇にピアス』はいいタイトルだと思います。

 瀬戸内さんの『夏の終り』もとてもいいですよね。燃え盛る夏と終りという対比。また、「終り」というのは、様々な情感を喚起させる言葉です。『情事の終り』(G.グリーン)というのもあります。あ、あとは、『マチネの終わりに』も(笑)。瀬戸内さんの『美は乱調にあり』というのも印象的なタイトルですね。

 僕の作品の『決壊』というタイトルは、いくつか他の案もあったのですが、最後に「これだ」という感触があったものを選びました。編集者に提案したときも、とても反応がよかったんです。

 ですが、古井由吉さんとお酒を酌み交わしながらお話をしていた時、「『決壊』は、タイトルの印象が強すぎるのでは」と、指摘されました。物語の中でせっかくいろいろなことを書こうとしているものを、読者がタイトルに引っ張られすぎて、うまく汲み取れないんじゃないかと。

  たしかに、「決壊」という言葉にはインパクトがあり、そこに向かって物語が進んでいく読者の意識が強いから、その途中に書いてある色んな重要な話を、読者がうまく主題と結びつけられなかったという感じは、感想を読んでいて結構ありました。

『決壊』にはいろいろな話が盛り込まれてます。三島や森鷗外も出てくるし、何気ない会話などが、実は本質的な問題として主題に繋がっていたり。無関係なことは、一切書いていないと思います。ただ、タイトルでそれを表現するより、その後は、物語の構造をレイヤー構造にして、トップには物語のストーリーを牽引するラインを敷き、下層部分には哲学的な思索とか、社会的な考察とかを積み重ねていって、……というデザイン的な工夫でこの問題を解決していきました。

 

【純文学とは何か?】

——『文学に「純」がついた「純文学」って何でしょうか?分けられるとしたら純文学とそれ以外の作品を分ける決定的なものは何でしょうか?』(G.Gさんより)

平野:これも大問題でなかなか難しいのですが、昭和くらいまでは、「大衆文学」と「純文学」は、はっきりと分かれていました。その二つの間に位置する「中間小説」と言われたものは、純文学の世界で非常に軽蔑されていました。中間小説を書くことは、弾圧されたキリシタンか何かのように、”転ぶ”と表現されていたくらいです。瀬戸内さんが小田仁二郎が何となくイヤになった理由の一つも、中間小説でした。現在からすると、可哀想な感じがしますが。

 三島由紀夫は、はっきり自覚的に中間小説を書いた人でした。媒体によって明確に分けています。文芸誌に寄稿するときは、自分の本業の純文学作品を書きますが、女性誌などには、中間小説を書く。『夏子の冒険』や『音楽』、『複雑な彼』などはそれにあたります。今はただ、「純文学」と受け止められていますし、三島研究でもそれらを評価していく方向になっていると思います。

 純文学と大衆文学(エンタメ小説)という分け方をするのは日本だけだと言われることがあります。僕がデビューした90年代になると、直木賞作家の人たちが大衆文学を下に見るような風潮に対して反発し、純文学と大衆文学の区分けは一体何なのかということが結構よく議論されました。

 その中で、大衆文学と純文学と分けているのは日本だけ、という言い方も随分されましたが、必ずしもそうではないと思います。フランスのノワールとか、推理小説などのジャンルは、レーベルも分けられて、「純文学」とは区別されています。だから、そういう小説がノーベル賞をとることはまずないですし、海外のカフカ賞やゴンクール賞などは、日本で言ういわゆる純文学作品が受賞しています。ただ、ブッカー賞は、日本で言うなら直木賞的な作品も受賞しているようですし、ジャンル小説じゃないものをどうして大衆文学と純文学にわけられるのか、というのは、その通りです。海外ですと、どこの出版社から本を出すかによって、「エンタメ系の作家」と完全に認識されてしまう場合があります。日本だけでなく、ある程度、ワールドワイドにある区分けだと思います。

 例えば大正時代に、志賀直也の『暗夜行路』がやっと1万部売れた時代に、50万部と桁違いのベストセラーになった島田清次郎の『地上』という小説は、大衆文学扱いで純文学の歴史の中では黙殺されています。その一方で、ドストエフスキーの『罪と罰』が日本に輸入されたときには、推理小説あるいは一種の大衆文学という意見もあったのです。

 やっぱり、なかなかくっきりとは分けられないところがあります。その作品の内実よりも、日本文学振興会が、直木賞の候補にするのか芥川賞の候補にするのかで割り振ってるために、制度的に分かれているにすぎないという見方もありますね。芥川賞と直木賞の境界にいる作家もいます。つまり本当のところは、分けられないっていうのが正しいのですが、しかし漠然といまだに分かれていて、読者の中にも純文学作品が好きだという人もいれば、本は好きだけど純文学は読まないという人もいますよね。

 その上で、僕の思う定義を敢えて言うと、読み終わったときに何かすごく大きな認識や価値観の変化があった、というのが純文学作品に求められるもの、コアにあるものだと思います。今までの自分の価値観に抵触するために、考え込んだり、抵抗を感じたり、その世界と自分との間に葛藤と緊張関係を持ちつつ、それを咀嚼しようとして、読むのに相当な時間がかかるものだと思います。

 エンタメの場合は、一つのエンターテイメント世界として完成されていないといけない。あまり価値観自体を破壊するようなプロットになると、ややこしい思弁的なところに引っかかり、ページをすいすい捲くることができません。だからある程度、読みやすさを前提とする必要があります。それが純文学側から見たときに、「通念的で物足りない」という評価になるのかもしれません。ただ、目的が違うとも言えますしね。……

 

【美術が小説のインスピレーションになることは?】

——「平野さんが、Instagramで美術の展覧会に行かれる様子を楽しく拝見しています。展覧会で受けた影響が小説のインスピレーションへ繋がることはあるのでしょうか。私自身も展覧会に行くことが好きなので、平野さんがどんな風に美術を観て吸収されているのかが気になりましたので、お伺いしたいです。」(あすさんより)

平野:アートは僕にとっては重要な刺激です。純粋に美術として楽しむという部分もありますが、自分の仕事に引き付けながら見るところもあります。

 昔の大家の格調高い作品を見て、自分の表現が達しないといけない「水準」みたいなものを、あらためて確認し直してインスパイアされることもあります。パリに滞在していた頃は、ヨーロッパの美術館を巡っていろいろと観ていましたが、ここ数年は、特に新鮮な刺激として、現代アートをよく観ています。

 現代アーティストの作品と思考の水準に触れることは大事な気がします。いろいろとヒントを得ることもありますし、立派な作品には心が打たれます。その立派さとは何か、というと難しいですけれど、やはり「格調高さ」がアートには必要だと思いますね。これは必ずしも反動ではなくて、一種の雰囲気みたいなものです。

(構成・ライティング:田村純子)


平野啓一郎の文学の森

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