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〔文学の森ダイジェスト〕平野啓一郎が瀬戸内寂聴さんの小説家像を語る   ゲスト:文芸評論家・尾崎真理子さん

text by:平野啓一郎

平野啓一郎をナビゲーターとして、古今東西の世界文学の森を読み歩く文学サークル文学の森では、3か月ごとに「深める文学作品1冊」をテーマとして定めています。その作品に関し、1か月目は「平野啓一郎が語る回」、2か月目は「平野啓一郎がゲストと語る回」、3か月目は「読者と語る回」を開催します。

1月クールの「深める文学作品」は、瀬戸内寂聴『夏の終り』。この記事では、2月25日に開催したライブ配信「平野啓一郎が『夏の終り』をゲストと語る回」のダイジェストをお届けします。


(左)平野啓一郎 (右)尾崎真理子

平野啓一郎(以下:平野):本日は、尾崎真理子さんにゲストとしてお越しいただきました。尾崎さんは読売新聞の文化部で長く文芸を担当しておられ、瀬戸内さんの番記者* もされていました。僕もデビュー当時から取材して頂き、瀬戸内さんとの出会いも、実は尾崎さんが関わっていらっしゃった読売新聞の企画でした。今日は、前半は瀬戸内さんの小説家像に触れるようなお話をして、後半で『夏の終り』の話をできればと思っております。

*番記者:特定の取材対象者に密着して取材を行う記者のこと

尾崎真理子(以下:尾崎):はい、どうぞよろしくお願いいたします。

 

【即決・行動する作家・瀬戸内寂聴  ー 戦争体験と反戦運動】

平野:瀬戸内さんは多岐に渡ってご活躍されてましたが、その中でも、反戦運動が重要な活動の一つでした。今、ロシアがウクライナを侵攻し、世界中が衝撃の中、事態を注視し緊迫している情勢です(※ 対談は2022年2月25日に実施されました)。反戦運動と瀬戸内さんについてお伺いさせてください。

尾崎:瀬戸内さんとお知り合いになったのは1992年。前年91年1月に湾岸戦争が始まりました。瀬戸内さんは、反戦の意思を示すため、2月17日から24日まで8日間、水とお茶以外口にせず、寂庵で写経をされており、賛同者が寂庵に集まりました。最後には瀬戸内さんが倒れてしまいましたが、入院直後、目を覚ましたら、イラクが多国籍軍に降伏していました。その後、瀬戸内さんは、1400万円もの募金を集めて薬品を購入し、相当な危険を冒して、バグダッドまで届けました。当時、既に70歳でしたが、その後も、何回か同じようなことをされています。凄い方だったとあらためて思います。

平野:瀬戸内さんは、安保法制反対などの政治的な問題に関しても、本当に即断即決、思い立ったらすぐ行動に移す方で、いつも非常に尊敬して見ていました。大江健三郎さんも「九条の会」などで政治的なコミットをされていて、僕はデビューが早かったおかげで、そういった方たちの精神に触れることができて、本当に良かったです。

瀬戸内さんのお母様は空襲で亡くなられていますが、その辺のことをお話したことはありましたか?

尾崎:中国から引き揚げた後、お母様が亡くなったことを知らされ、小さなお子さんを抱えながら、しばらくはかなり精神的に不安定になったとおっしゃっていました。

作品は数あれど、中国での記憶や体験に繋がる作品は、三作品しか書いていらっしゃらないんですよね。かなり書き辛く、複雑なものがあったようです。北京で、京都大学名誉教授のチベット学者である佐藤長さんとの交流もあり、瀬戸内さんは最初から知識人との出会いに恵まれていたようです。歴史も含めて中国というものの捉え方が正確だったと思います。

平野:佐藤さんの臨終の場面を書いた短編があったと思いますが、瀬戸内さんは佐藤さんを看取り、佐藤さんから京都の町家を寄贈されていますね。瀬戸内さんが中国を引き揚げる時の話ですが、戦中、日本人が現地で酷いことをしていたので、終戦の知らせを受けたときに、「もう殺されると思った」とおっしゃっていました。あの戦争は何だったのかという、瀬戸内さんの認識の中で非常にリアルな体験の一つだったと思います。

 

【AIDSを描いた新聞小説『愛死』、そして社会との関わり】

平野:先ほども話に出ましたが、1992年の尾崎さんと瀬戸内さんの出会いや、新聞小説に関してのエピソードを伺わせていただけますか。

尾崎:はい、瀬戸内さんが92年に『花に問え』で谷崎潤一郎賞を受賞され、インタビューを初めてさせていただきました。その時に、新聞小説についてお伺いをたてました。ちょうどAIDS(エイズ)が流行り始めた時期で、今は使わないと思いますが、中国語ではHIVを”愛死病”という呼び方をしているとお話したら、「それはいいわね、それを書きましょう」と言われて、その場で決まりました。

 一年ほど、瀬戸内さんは新宿二丁目などに熱心に取材に行ったり、私がお送りした多くの本を読まれ、監修役のお医者様も決め、準備万端な状態で連載をスタートしました。94年に『愛死』は単行本になりました。その後、薬害AIDS問題が沸き起こったので、作品が現実を先取りする形でした。先生はその後の数年間、薬害AIDSやAIDS禍にみまわれた人たちの側に立ち、偏見や誤解を解いて、啓蒙してまわる立場を委ねられることになりました。

 社会問題との関わりにおいては、ほぼ偶然のように引き受けて、そこで自分で堰き止めずに、むしろ拡大していく。そういう役割を果たされました。源氏物語もお書きになっていた本当にお忙しかった時期で、70代だったのに信じられないことですね。東日本大震災の頃も、腰を痛めていながら被災地を行脚されていて、頭が下がりました。

平野:いろいろなことに関心を持ちながら、「これは自分のテーマなんだ」というようなことを、その時々で直感的に判断されていたと思います。AIDSは当初、同性愛者の間で広まり、社会的な偏見もありました。中国では、売血によりAIDSが広まったことを閻連科が後に小説で書きました。僕が瀬戸内さんにお目にかかったのは、1999年の年末でしたが、老大家といった風情ではなく、源氏物語の現代語訳も刊行されている時期でしたし、本当に現役バリバリの小説家という印象が今でも強く残っています。

 

【平野啓一郎が瀬戸内さんと出会うきっかけとなった鼎談、デビュー当時を振り返って】

尾崎:1999年末、「寂庵」で平野さんと文化人類学者の青木保さん、お三人の鼎談が実現した時の記事を刷り出してきました。2000年紀を前に、「人間はどういう時間感覚を持っているのだろうか」というテーマになって、平野さんが立派なことをおっしゃっています。

瀬戸内さんの「子どもの頃の一年は長かった。源氏の世界では一日が長く、なかなか一年が過ぎない」という発言を受けて、平野さんは「多分、体感している時間の長さの方が現実だと思います。考えてみれば、処女マリアからキリストが生まれたことを根拠とする神話的時間が、現代科学の最先端のコンピュータの問題と絡まって2000年問題の騒ぎになったのも不思議ですね。コンピュータのデータが100年を勘違いするという馬鹿らしい技術がグロテスクな現実に直結しうるところが象徴的です」とおっしゃっています。当時、平野さんはまだ24歳でしたね。

平野:僕は当時、宗教学者のエリアーデの影響を受けて、神話的で円環的な時間と、ユダヤ・キリスト教的な直進的な時間に関心を持っていた時期だったので、そういう発言になったのだと思います。

尾崎:もう一つ、いいことをおっしゃっていました。「忙しい現実社会の中で、かつて教会やお寺が引き受けていた特別な時間を、どうやって体験していくのか。僕が一つ考えているのは、芸術に触れることですが、そういった体験をするときに大切なのは反復です。日常とは別の時間に触れてまた帰ってくる、その反復的方法によって、ある種のカルト教団による極端な時間の追求とは別の形で、時間の多様性を体験できるのではないでしょうか」

平野:バブル崩壊後、オウム事件がまだ生々しい傷跡を残していて、湾岸戦争もありましたし、90年代はなんとも言えない社会的な閉塞感がありました。

同時に文学の世界でも、「やり尽くされた」という閉塞感がありました。インターネットなどはごくごく一部の人が使うような技術でしたから、世紀末的な雰囲気もあり、息苦しさから自分を解放してくれるようなものとして、芸術に期待していました。ただ、芸術体験に完全に浸り切ってるわけにもいかない。だから現実との反復によって、完全に非日常の世界に籠もってしまうカルトとは違う形でそれを経験する方法があると、おそらく言おうとしたんだと、だんだん思い出してきました。

尾崎:瀬戸内さんは「仏教では三世の思想というのがあって、その無限の遥か過去に過去世があって、現世があって、その向こうに計り知れない来世がある。たかだか100年の短い現世で我々は右往左往し泣いたり喚いたりしているわけですが、永遠から見れば大したことではないと仏教では言うのです」と達観したことをおっしゃっている。でもその割には現実を諦めず、最後まで少しでも社会をよくしよう、作品を創作しよう、と現実に立ち向かわれたように感じています。

平野:瀬戸内さんは、出家のおかげで生き続けることができたというご自覚があったと思います。一方で、文学作品は、仏教者として達観しているような雰囲気とはおよそかけ離れていて、愛欲に苦しむ人間の姿を描いてます。そういう意味では、修行し解脱してニルヴァーナに入る仏教者としての生とは違った形での信仰生活だった感じはしますね。やはり、文学者という印象が強いです。

尾崎:閉塞感のある中で、悩める人を救済したい思いから、仏教者としても、お勤めとして青空説法などの形で活動されたと思うんですね。でも、ご自身で来世のことをどう見極めていらしたかは話されませんでした。

平野:いろいろな形で思想的な影響を受けているとは思いますけどね。

尾崎:平野さんの芥川賞授賞式の時に、審査員の河野多恵子さんが「振り返ってみれば、この1999年というのは、あの平野啓一郎がデビューした年だと文学史に刻まれることになるのではないかという気がします」と堂々とおっしゃられたのを、私はよく記憶しています。河野さんはそのようなことをおっしゃらない方なんです。

鼎談の後、ドナルド・キーンさんにも平野さんをご紹介いたしましたけれども、そういう人たちに、急いで会っておいてもらいたいと思うような新人って、なかなかやっぱり出てこないものです。平野さんはそういう役回りであり、才能だったということを、是非この機会に皆さんにお伝えしておきたいと思います。

平野:ありがとうございます。本当におかげさまで、瀬戸内さんにもキーンさんにもずっとよくしていただきました。思うのですが、作家は隔世遺伝的に評価されていくところがあるような気がします。僕はポストモダン世代よりも、その上の世代の方たちに評価されました。

尾崎:それは事実だと思います。大江さんも「第三の新人」* よりも戦後派の人たちにかわいがられましたよね。それもやっぱり隔世遺伝的なことかなと思ったりします。

*第三の新人:第一次戦後派作家・第二次戦後派作家に続く世代として、1953年から1955年頃にかけて文壇に登場した新人小説家のこと。安岡章太郎、吉行淳之介、遠藤周作を代表的な作家とし、第一次・第二次戦後派が本格的なヨーロッパ風の長編小説を指向したのに対し、戦前の日本において主流であった私小説・短編小説への回帰をはかった点が特色とされる。

 

 

【名実ともに瀬戸内さんの代表作である『夏の終り』について】

平野:尾崎さんの視点で『夏の終り』はどのように見えていますか?

尾崎:『夏の終り』は完成された作品です。本当の意味でのデビュー作であり出世作であり、女性が自分を客観視して書くという極点を見せた非常に秀逸な作品だと思います。これを40歳でお書きになったというのは、当時見る人が見たら「もうこの人の将来は保証された」と思ったのではないでしょうか。

平野:『夏の終り』は瀬戸内さんの私小説でしたが、非常に完成度が高くて、代表作にふさわしいですね。客観的に瀬戸内さんの仕事を振り返ると、モデルがしっかり存在している作品が中心であり、ご自身が非常に共感するような等身大の人物を書く時に非常に筆が乗っています。晩年の作品では『場所』が瀬戸内さんの人生を振り返る一つの集大成的な傑作だったと思います。

尾崎:瀬戸内さんは、同時代の女性作家である佐多稲子さんを尊敬しつつ、ライバル視していました。佐多さんは78歳になって、名作『夏の栞』を書かれています。小説家・中野重治さんと、妻の原泉さんと、自分。ある種の三角関係が描かれているという意味で『夏の終り』と対比したくなる作品なんですね。自分が人を愛した記憶というのを書いた小説としてこの二つは並ぶ、と最近ふと思うことがありました。

『瀬戸内寂聴に聞く寂聴文学史』(中央公論新社) をまとめる時に、『夏の終り』について瀬戸内さんにインタビューをしました。その時に、「小田仁二郎は自分のことを書いてもよいと認めた上で、編集者の視点から私の原稿を読んで、冗漫だからここは削れ、などと言ったけれど、書いた内容がいけないとか自分のことを書いてはいけないとは一言も言いませんでしたね」とおっしゃっていました。

また、涼太についても「彼も小説家になりたかった人だから、書くべきだ、ということを理解していた。あのこと忘れてない? なんて助け舟を出してくれた。二人が絶え間なく、どうしてそんなに自信がないのかな、あなたはそれだけ才能を持っているのにと、双方が励ましてくれた」ということです。

やっぱりそういう人を選んでお付き合いなさってるんだな、という感想を覚えました。自分の才能を殺すような人のことは好きになっていない。

お二人とも、一般的な基準では、“駄目”な男の人たちかもしれませんけれども、最終的には瀬戸内さんを生き残らせてくれるというか、そこのあたりの男性選びは凄いと思いましたね。井上光晴さんとのご関係も、小田さんとも、最後は性愛を超えて人間としてとことん理解しあう関係として結ばれているので、普通の恋愛よりも一層強い何かがあったと思うんです。

平野:小田仁二郎は前衛小説家で、売れずとも非常に尊敬していたけれど、中間小説を書いて糊口を凌いだことが瀬戸内さんは非常に嫌だったようですね。難しい観念小説のようなものへの憧れをお持ちで、瀬戸内さんの時代には「中間小説を書くと純文学作家としては終わりだ」という気持ちが強くあったようです。

尾崎:そのような感覚を理解できるのは、私の世代くらいまでが最後だと思うのですが、瀬戸内さんは文芸誌信仰というのが本当に強かった。全神経を傾けて書くのが文芸誌だと思われていたようです。瀬戸内さんと同世代の「第三の新人」が純文学と中間小説を両方書いていらっしゃったように、瀬戸内さんもそうされていたので、非常に器用でしたね。「内向の世代」* になると、その書き分けはほとんどなくなりました。

*内向の世代:1930年代に生まれ、1965年から1974年にかけて頭角を現した一連の作家を指す。

平野:瀬戸内さんは、片方の目を失明されて、片目しか見えてないような状態でも、本当によく文芸誌を読まれていましたね。

尾崎:瀬戸内さんの作品には、政治的事件を扱った、文学を超えたジャーナリスティックな作品もあり、それに刺激された女性の新聞記者も少なくないように思います。『夏の終り』が初期の私小説として代表的なのに対して、ミリオンセラーになった『京まんだら』なども、特筆すべきエンターテインメント小説だと思います。60年代後半から70年代にかけての日本経済の勢いや、女性の意識の変化、当時の日本を象徴する作品だということも、本日、若い世代の方々にお伝えしたかったことです。

平野:尾崎さんは、ゆっくり語り合い、お話させていただきたい方のお一人でした。瀬戸内さんについて「あれをもっと聞いておけばよかったな」ということも多いので、こういう機会にお付き合いいただいて本当に光栄でしたし、楽しかったです。また何かの機会に、是非よろしくお願いします。

尾崎:こちらこそ、よろしくお願いいたします。ありがとうございました。

(編集・ライティング:田村純子)


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