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〔文学の森ダイジェスト〕平野啓一郎が『本心』を語る ─ 心地のよい幸福感を感じられる分人の状態でこの世と別れること

text by:平野啓一郎

 平野啓一郎をナビゲーターとして、古今東西の世界文学の森を読み歩く文学サークル【文学の森】 にて、ライブ配信「平野啓一郎が『本心』を語る回」を4月25日に開催しました。この記事では、ダイジェストをお届けします。


── まず、『本心』を書かれた経緯を教えてください。

平野啓一郎(以下、平野):ARで親しい人の似姿を死後に作るというアイデアを、実は『ドーン』という小説の中で既に書いています。子どもを震災で亡くした母親が、その悲しみから立ち直れず、AIで動くARの子どもを作って一緒に暮らしているという設定で書いたのです。

  分人主義で考えると、子どもの生活は、子ども園と家族、友達といった大人よりも限定されたものとなります。そのため再現しやすい。もちろん、再現されても本当の子どもではないのですが。それに対して、大人は分人の数も多いし、過去から現在までの経験していることや社会性から複雑性が増すという違いがあると思います。

 『本心』を執筆していた頃、亡くなったアーティストのホログラムのツアーが始まるということが現実にありました。 ディープフェイクというAI で再現された人間の顔などが、画面上ではまず本物と区別がつかないくらい精度が上がってきています。

 人が亡くなった時に、その寂しさを紛らわすために、写真やビデオなど何らかのメディアで残ってる痕跡を利用することがあります。インタラクティブじゃないメディアがインタラクティブになっていく、という大きな流れがある中で、写真、家、ビデオなどの後にインタラクションのあるもので、亡くなった人を偲ぶということも考えられると思います。しかしそれが何かということ自体は、やはり文学的に書くべき複雑な内容を含んでいるなと思いました。

 『本心』連載中に、外国の企業が亡くなった子どもをAIで作り、その母親がヴァーチャルな空間で子どもと対面し、ボロボロと涙を流すというような心揺さぶられる動画も目にしました。

 『空白を満たしなさい』を執筆した時にも考えたのですが、亡くなった人に対する一番強い思いというのは、なんといっても、もう一回会って話がしたいということに尽きると思うんです。

 多くの人はいろいろな形でAIに頼らずに、愛する人の死を乗り越えていくと思うのですが、それができない人たちもいて、僕は文学者ですからそういう人たちのことが気になる。『本心』の主人公の朔也を、「感情生活の落伍者」として書いています。母親を亡くしたことを乗り越えられなくて、AIで再現したいと考えるのはマイナーな考えかもしれませんが、それを通じて一般的な何かが見えてくるんじゃないかというのが、僕の発想でした。

 作中に車椅子の少年が出てきます。その人物を描く上で、障碍を持ち車椅子を利用している人に何人か取材をしたのですが、「コロナ禍で多くの人が家にこもるようになったため、家から出られない人が利用するサービスが増えて、自分たちにとって生きやすくなった。」といわれたのが非常に印象的でした。ウーバーイーツが盛んになったことなどが象徴的なことだと思います。

 コロナ禍で再度明らかになりましたが、僕たちの価値観は健常者中心主義になっています。20世紀の思想で身体性の強調ということもさんざん言われたきたし、部屋に籠っているよりも自然にふれあって田舎にいるほうがいいとか、現実こそがすばらしい、ゲームなどは二次的に再現されたものにすぎないと貶めるような、価値的な序列をつくってきたと思うんです。それに改めて強い疑問を抱いたのは、『かたちだけの愛』で義足について書いた時でした。

 いろんな身体的条件で生きている人がいます。実際に寝たきりの人やメンタルの問題で出られない人もいて、たとえばゲームに浸っている人もいるでしょう。そういった人に、それは二次的な再現で偽物で現実とは違う、現実こそが価値があるとは言えないと思うのです。

 もしVFの母親を拠り所にして生きている人がいたとしたら、生きたお母さんの愛情に満たされた人が、それに対して、偽物の母親ではないかと言えるのだろうか。言えないと思うんですよ。VFの母親と暮らす人は実際にそれに癒されている。現実こそが全てであって、二次的な再現を偽物としたり、価値として序列化するのではなく、多様性として認めることが大事であり、VFの存在は、喪の作業のプロセスの中では必要なんだと思いました。

── 新聞連載から単行本化するにあたり、加筆修正された流れをお伺いできますか。

 新聞連載として読むのと、単行本として一冊として読むのとは結構違います。あえて新聞連載では書き込んだところもあり、後から振り返ると全体を見て整えるべきプロポーションはでてくると思います。全体的な印象のコントロールです。

 あとは「安楽死」というのを「自由死」に書き換えたのが一番大きかったと思います。

── 新聞連載を読んでいた読者からの反応で、単行本化の際に、「安楽死」を「自由死」に変更された点については、かなり驚きがあったようです。重要な変更ですね。

平野:「安楽死」はオランダなど合法化された国では、厳格な条件が定められています。治癒しない病気であることや、登録されたかかりつけ医(家庭医)が長期間に患者の明確な意思のもとに安楽死を希望しているかを確認します。判断を法的に整えていて、死の医療化という概念で語られているようです。

 連載中には、拡張された「安楽死」というイメージで書いていたのですが、「安楽死」をめぐる議論はすごくセンシティブで、僕が書こうとしている話と概念的に区別したほうがいいのではないかと思いました。

 寿命で亡くなるのを「自然死」と呼ぶとして、それに対比する言葉として、一切の条件なしに本人の意思次第での「自由死」を考えたのです。

 死の自己決定権が許されるのかどうかを考えるきっかけは、生きていく上での「分人主義」という概念によります。人間は生きていく上で、対人環境で異なる人格を生きていくことになるという分析概念です。どうやって生きていけばよいかは、自分にとって生きていて心地のよい分人を見つけて生き、ストレスを感じる分人を特定して避けたり比率を低くなるような対人関係や環境を整えていくのがいいという、生き方指南のようなものです。

 死ぬ時にどういう分人で死ぬのがいいのか、と考えたのですが、やはり心地のよい幸福感を感じられる分人の状態でこの世と別れるというのが幸福なんじゃないかと思ったのです。逆に、不本意な状態で死ぬのは悲しい死に方ではないか、と。極端な例としては戦場で敵と戦って死ぬこと。愛する人が見守るなかで、幸福な分人の中で死にたいと思いました。

 死に対しては一人で受け入れないといけないという考えが強い。愛する人と時空を共にしながらこの世に別れを告げるためには、死のスケジュールを自己決定できるのことが大事なんじゃないかということから考え始めたのです。ある年齢に達して、いい状態の中で落ち着いて死ぬ時期を決めるのは同意する人もいるんじゃないかと。

 しかし制度的に「自由死」として認められたら、逆にそれで追い詰められる人も当然いることも考えました。それは小説としていくつかの立場で考え、登場人物を通じて考えていくべきだと思いました。

── 最終章のタイトルであり、『本心』のテーマでもある「最愛の人の他者性」という言葉も印章的でした。

平野:愛する人を理解するときに、その人の考えやしたいことを尊重するということと、愛するがゆえにそこに関与しようとし、行為を変えさせるということがある。

 およそ理解できないことを、この小説だと、お母さんが70歳で自由死を希望することをどう捉え、そこにどういう態度をとるのかが難しいところです。当然止めたい気持ちと理解したい気持ちの間で揺れるというのが朔也の苦しみです。 

 愛する人の他者性を尊重すれば認めるべきだけど、尊重しても相手の本心をどこまで理解できるのかということもある。表面的に尊重したら、本当は止めてほしかったという複雑なこともありますし、相手の本心をわかるのがまず難しい。その上で尊重しつつ関与するということがどういうことなのか、理解に絶すること、わからないものをわかろうとするのが愛する人の他者性と関わっていくことだと思います。

── その「最愛の人の他者性」に向き合う物語である『本心』として、ラストシーンは、希望があるものに思えますね。

平野:最初に考えた終わり方はもう少し複雑で暗かったんですが、生きることに肯定的になる小説にしたいと思いました。絶望感に誘い込む小説にはしたくなかったのです。

 コロナ禍の社会がこれだけダメージを受けてて、自分自身の心境としても辛い終わり方はできないというのがありました。自分の体調を不安に思うことや体感に素直になりながら書くようになった。感覚的なものをうまく自分の創作に取りいれられるようになったというのは20年くらい小説を書いているからかなと思います。

(ライティング:田村純子)


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