平野啓一郎をナビゲーターとして、古今東西の世界文学の森を読み歩く文学サークル【文学の森】が、2021年4月にプレオープン、7月に公式オープンしました。
そのプレオープンを記念し、モデレーターに木村綾子さんを迎え、平野啓一郎の文学の歩みを紐解く対談を3月21日にZoom及びYoutubeで配信しました。その対談のダイジェストをお届けします。
平野啓一郎 + 木村綾子 + 司会:佐々木咲
三島由紀夫をナビゲーターに、海外文学の世界へ
木村綾子さん(以下、木村):まずは、平野さんが文学と出会うきっかけとなったエピソードからお伺いしたいのですが、原体験には、やはり三島由紀夫の存在が大きいですか?
平野啓一郎(以下、平野):正確にいうと、僕が文学を読みはじめたのは、もう少し前からです。子供の頃は、本を読むのがあまり好きではなくて、野球とかサッカーとか、外で遊ぶのが好きな子供でした。テレビゲームは一時期やりましたけど、すぐに飽きてしまいましたね。ドラクエもⅡくらいまではやりましたけど、アイテムを集めたりするのが、めんどくさくなってきたりして(笑)。
それでも、学校の先生から読書を薦められるので、義務感から名作と呼ばれる本を少しは読んでいました。でも、あまり面白いとは思えませんでした。そんななか、三島由紀夫の『金閣寺』と出会うわけですが、それまでの読書では感じたことのない衝撃を受けました。なんなんだ、これは…と驚きましたね。
木村:その衝撃が、平野さんを読書へと駆り立てていったんですね。三島からの影響は、平野さんの知識欲をどのように広げていったのでしょうか。
平野:そうですね。特に、『裸体と衣裳』の存在が大きいです。『鏡子の家』を書いている頃に、三島が書いていた日記なんですけど、その内容がとても充実しているんですよね。その頃の彼は「文壇の寵児」と持て囃されていて、華々しい日々の様子が描かれているのですが、同時にものすごい量の読書の記録も綴られています。この『裸体と衣裳』に登場する作品を読んでいくことが、僕が外国文学を読み進めるきっかけとなりました。
特に、三島の影響で、モーリアックを熱心に読むようになりました。遠藤周作が翻訳をした『テレーズ・デスケルウ』はもちろん、僕が傑作だと思っている『愛の砂漠』まで、色々な作品を読みましたね。ただ、僕くらいの年代でモーリアックが好きという人に出会ったことはありません(笑)。また、三島はボードレールが好きだったから、そこから始まってランボーやマラルメ、ヴェルレーヌなど、フランスの象徴派の詩を日本語訳で一生懸命に読みましたね。
木村:読むことと並行して、17歳の時には初めて小説を書かれたと伺いました。単刀直入にお伺いしますが、どんな物語だったんですか?
平野:三島の影響で、僕はトーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』や『道化者』といった初期短編が好きでしたから、それらの作品の影響を受けていたように思います。
トーマス・マンを僕が好きだったのは、彼の作品に登場する人物は、美や芸術を愛する一方で、市民社会にも憧れの気持ちを持っていて、それが自分と通じるところがあるように感じていたからです。僕の親戚は、公務員や医者など手堅い仕事の人が多くて、プチブルジョワみたいな環境で育ちましたけど、その人たちが俗物みたいには思えませんでした。むしろ、真面目にコツコツ働いていて、自分もそういう風に生きていきたいし、生きないといけないとも感じていました。でも、なぜか馴染めない。そういう持て余していた気持ちを表現していたのが『トニオ・クレーゲル』や『道化者』なんです。
三島は日本の作家でいうと、森鴎外に圧倒的に影響を受けているんですよね。僕が森鴎外の全集を読んだのは大学時代でしたけど、高校の頃から『高瀬舟』などの有名な作品は幾つか読んでいて、彼の文体が自分にすごく合っていると感じました。
でも、その時に僕が書いていた小説は本当に稚拙なものだったと思います。それ以来、全く読み返すこともないですし、むしろ見返すのが怖いくらいです(笑)。
木村:圧倒的で偉大なものを吸収しつつ、自らも書くことを始められ…。思春期だった当時、平野青年の頭の中をうごめいていた思考を想像すると、触れてみたいと思う反面、近づきがたさも感じてしまいます。…同世代の友人で、文学を語り合える仲間はいましたか?
平野:全然いませんでしたね。僕の通っていた高校はバンカラ風で、男は寡黙であることが良しとされて、体育会系の部活を頑張る生徒が偉いみたいな雰囲気がありました。だから、文学の話が会話にのぼることはありませんでした。村上龍さんや山田詠美さんの本を読んでいる人は少しはいたけど、僕みたいな海外の古典文学を読んでいる人はいなくて、少し浮いている感じはありました。
実は、僕は生きている作家の本を読んだことは、大学に入るまでほとんどないんですよ。大江健三郎さんの作品を少し読んでいたくらいですね。遠藤周作は、母が好きでちょっと読んでましたけど。
木村:現代作家ではなく、亡くなった作家ばかりを好んで読んでいた。そこに明確な理由はあったんですか?
平野:理由は、よくわかりません。文庫ばかり読んでいたので、手に取りやすいのが古典だったのかもしれません。あとは、知識もなかったので、注目されている作家が誰かも知りませんでした。田舎の本屋だと、ベストセラー本と雑誌がメインで、文庫本が少し置いてあるくらいです。そんな環境だったので、たまたま出会いがなかっただけかもしれませんね。
木村:現在のようにインターネットやSNSがあるわけでもないので、田舎では情報を得ることが難しいですよね。その中で、14歳の多感な時期に、三島由紀夫という一本の軸を見つけられたのが大きな礎になったんですね。
平野:そうですね。あとは、岩波文庫の存在も大きいですね。岩波文庫は「フランス文学」「ドイツ文学」といったカテゴリーごとの本のラインナップを後ろの広告ページに掲載しているじゃないですか。ある時から、そのラインナップを一冊ずつ読んでいくのが楽しくなってきたんですよね。自分の本棚に、カテゴリーごとに作品が揃っていくのを眺めるのが嬉しくなったり。読書をはじめた頃は、それが純粋な喜びでしたね。今は溢れ返ってる本棚を見て、日々、気が滅入ってますが。
思想関係の本に大きな影響を受けた大学時代
木村:京都大学に入学したことで、北九州から京都へと環境が変わり、平野さんの読書の幅も大きく広がったと聞いています。大学時代は、どんな作品を主に読んでいたんですか?
平野:実は、入学したばかりの頃は、大学では本を読むのをやめようと考えていたんですよ。文学を読みはじめた頃の初期症状として、読めば読むほど、周りの友達たちと話が合わなくなっていく感覚があって、大学では健全な学生になろうと考えていたんです。だから、選んだ学部も法学部ですし、それまでに買った本も全て実家に置いてきました。
ただ、大学の生協の書店にいくと、北九州の本屋で見ていた風景と全く違っていて、様々な種類の本が並んでいました。当時はポストモダンブームの最後の輝きという時期で、現代思想の本も平積みされていました。生協の棚を見て、知的な関心を持っている人たちが、今、何を読んでいるのかをはじめて知ったんですよね。それで文学だけでなく、思想関係のものに興味を持つようになりました。
例えば、ミルチャ・エリアーデという宗教学者の本をよく読みました。大学の生協にエリアーデ著作集が並んでいて、『鍛冶師と錬金術師』とか怪しいタイトルばかり(笑)。でも、彼の本を読んでいると、イマジネーションがすごく掻き立てられるんです。
僕が幸運だったのが、京都大学で小野紀明先生の西洋政治思想史の授業を受けられたことです。西洋思想の流れを2年間かけて追っていくという内容で、ポストモダニズムが生まれた背景を理解ができるようになり、現代思想の本の内容が少しずつわかるようになっていきました。
木村:中高生の頃の読書が「自分」を知るためのものだとしたら、大学では「社会」を知るための読書に変わっていったように感じますね。一方、平野さんが大学入学直後の1995年には地下鉄サリン事件や阪神・淡路大震災という大きな事件がありました。こういった事件が、平野さんに与えた影響はありますか?
平野:特に思い出すのは震災ですね。僕が住んでいた京都のアパートもかなり揺れました。ただ、当時はインターネットもない時代なので、距離的には近いのに、実感がうまく持てない不思議な状態でした。
その後に、地下鉄サリン事件があったりして、末世的な雰囲気が社会に漂っていました。僕は子供の頃にノストラダムスの大予言に影響を受けた世代でしたから、「1999年の終末がどんどん近づいてきている」と真に受けてたわけじゃないけど、何となく閉塞感を感じていました。この息苦しさが、僕が『日蝕』を書く原動力になったと思います。
木村:97年に『日蝕』執筆に取り掛かり、翌年、雑誌「新潮」に掲載され小説家デビュー。1999年は、奇しくも平野さんが芥川賞を受賞された年にもなりました。
平野:はい。先ほど紹介したエリアーデという人は、サルトルと同時代で、彼のことをすごく気にしています。『出口なし』というサルトルの戯曲がありますが、エリアーデは「出口はあるんだ」と何度も言うんですよ。僕たちは個性的な生を生きているようでありながら、実際には神話の物語を反復しているに過ぎないと彼は言います。そして、そのことを認識することが、現代人を「今、ここ」という限界状況から超越させて、孤独を救うと彼は考えているんですね。僕はその考えに、一種の解放感を覚えました。
やっぱり僕は文学や音楽に、この世界から超越させてくれるような強烈な非日常的な陶酔感を求めています。そして、神秘的体験を文学を通じて実現できないかという発想から、『日蝕』は生まれました。
木村:面白いですね。当時は思想的な本を多く読まれていたということですが、その頃に読んでいた文学作品はどういったものがありますか?
平野:三島が晩年にジョルジュ・バタイユの影響をすごく受けていたので、バタイユ全集を熱心に読んでいましたね。その関連で、クロソウスキーも読んでいましたし、『日蝕』を書くにあたり影響も受けました。
また、日本の作家に関しては、やっぱり、大江健三郎さんを熱心に読んでいました。でも、三島と出会った時の印象とは真逆で、三島の場合は「自分もこんな作品を書きたい」と強い憧れの気持ちを抱いたんですけど、大江さんの初期の作品を読んでいると、自分はダメだと自信を失っていく(笑)。大江さんがデビューした時に小説家の道を諦めた人がたくさんいたとはよく聞きますし、自分もそうだという人にも会いましたけど、その気持ちがよくわかります。
小説家になりたいと真面目に考えるようになってからは、夏目漱石・森鴎外・芥川龍之介の作品くらいは、読んでおかないといけないと思って、小説は全部読みましたね。特に、鴎外の作品を読み込んだことは、僕の文体を形づくる上で大きな影響を受けました。
木村:大江さんの作品を読んで、小説家になりたい気持ちを砕かれたという話がありましたが、私にとって平野さんの『日蝕』がそれです。ものすごい衝撃を受けましたね。
平野:ありがとうございます(笑)。でも、当時は悪口もいっぱい言われました。自分でもあまりに特殊だったので、芥川賞にノミネートされるとも思っていませんでしたし、こういう作品が好きという人も世の中にいるかもしれないから、そういう人に読んでもらえたらという気持ちで書いていました。自分の予想を超えて、多くの人の手に届いた結果、いろんな感想をもらいましたね。
同時代の作品を通じて、現代とは何かを知る
木村:『日蝕』で小説家としてデビューした後は、触れる作品に変化はありましたか?
平野:作家になってからは、僕の作品を評価してくれた人たちの小説とか、芥川賞の選考員の作品などは、その前後で読むようになりましたね。あとは文芸誌にも目を通すようになりましたし。
例えば、古井由吉さんの本。『日蝕』を書いてると自分だけが変なことに関心を持っているような気がしていたんですけど、ヨーロッパの神秘主義者について書かれた『神秘の人びと』を読んで、自分と近いことに関心を持っている作家がいたことを知りました。『夜明けの家』という当時出ていた短編集も好きでしたし、同時代の作家として、古井さんの本は新刊が刊行される度に読んでいます。
後は、瀬戸内寂聴さんが早い段階から僕の作品を評価してくれたんですよね。当時、瀬戸内さんの全集が刊行されていたタイミングだったので、瀬戸内さんの作品はよく読みましたね。瀬戸内さんは女性政治家の評伝作品を中期に書いてますけど、文学史的に非常に重要な作品です。今は過小評価されていると思います。
それと、ある時期から、自分の読書には偏りがあると、思いはじめました。男性作家に偏りすぎているとか、19世紀から20世紀前半に書かれた小説ばかりを読んでいるとか。それで、自分の偏りを補正したいと考えるようになりました
林京子さんの『長い時間をかけた人間の経験』という原爆体験について書かれた作品を文芸誌で読んだのも、その頃でした。それまでの僕は、三島の作品や大江さんの『遅れてきた青年』、大岡昇平の『野火』などを読んで、男性作家の系譜のなかで戦争について考えてきました。でも、その本では全く別の視点で書かれていて、そこには三島文学に対する強烈な批評を感じました。そういう体験を通じて、意識的に補正をする必要があると改めて思いました。
また、2004年に、綿矢りささんと金原ひとみさんの芥川賞の受賞がありましたよね。僕より若い世代で、大変な才能のある人たちが出てきたので、彼女たちの作品は、その後もフォローしてました。
木村:平野さんは、『日蝕』から『葬送』までを「第1期(ロマン主義三部作)」としていますが、その背景には「30歳になるまでは、書きたいもの以外は書くな」という大江さんからの助言があったそうですね。面白いと感じるのは、書くことは自分の関心に忠実な一方で、読むことには裾野を広げていることです。
平野:そうですね。特に『葬送』を書き終わった後から、更に色んな本を読むようになったと思います。自分が書きたかったことを、ある程度、理解し、書けたからでしょうね。この後は現代を舞台にした小説を書き始めます。
特に、僕自身は三島や大江さんに憧れていましたから、三島が31歳で『金閣寺』を発表したり、大江さんが30歳くらいの時に『万延元年のフットボール』を書いているので、僕も30歳くらいで自分を代表する長編を書きたいと意識するようになりました。
そのためには、現代という時代と、第1期の作品を書くなかで自分が考えてきたことを、改めて接合しないといけないと感じました。その結果、東京への引っ越しも決めましたし、同時代の作品にも目配せをするようになりました。
木村:その実験期にあたるのが、『高瀬川』『滴り落ちる時計たちの波紋』『顔のない裸体たち』『あなたが、いなかった、あなた』を書かれていた2002年〜2007年であるように感じます。作風のみならず、文体やレイアウトなどでも様々な実験を重ねられていましたよね。
平野:僕が『葬送』を書いている2001年にアメリカ同時多発テロ事件が起こったり、インターネットが普及しはじめたりして、社会がどんどん変わっていったんですよね。その変化を見ながら、小説家として書くべきテーマの変化を感じていました。
特に、インターネットの登場により、19世紀から20世紀後半に至るまで洗練を極めた文学の手法とは違うやり方が必要となるのではないかと思いました。世界中のあらゆる場所から情報が届く時代に、20世紀の延長で小説は書けない。それで、第2期では、様々な表現方法を模索していました。そういった実験的な試みや、現代社会について考えた末に生まれたのが、第3期の最初の作品である『決壊』です。
木村:平野さんが第2期の作品を書いている時には、どんな作品を読まれていたんですか?
平野:『百年の孤独』などのラテンアメリカ文学に凝っていた時期はありました。特に、ボルヘスは第2期の作品を書くにあたって、すごく影響を受けましたね。僕が書いた『バベルのコンピューター』という短編などは、直接的な影響下にありますし。
2004年から1年間ほどフランスに行っていたんですが、人間の生き死にをテーマに長編を書こうと思っていたので、この時期に集中してドストエフスキーを読みました。『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』などの有名な作品は以前に読んでましたけど、それ以外の作品も含めて、改めて彼の作品を読んでいきました。ドストエフスキーの作品に集中的に触れられたことは、『決壊』に大きな影響を与えたと思います。
木村:『決壊』以降の作品群では、「分人主義」という考え方が登場します。「人は”個人”ではなく、相手や状況に合わせて分化する複数の人格でできている」という考え方は、それこそネット社会における個人の概念の限界を突きつけるとともに、どう生きたら良いかに迷う多くの人の救いになりました。そういった作品を書きながら、平野さんご自身はどのような文学に救いを感じていましたか?
平野:それまでに親しんできた作品は継続して読んでいましたけど、現代作家でいうと、ウェルベックが登場した時は衝撃を受けましたね。特に、『素粒子』という作品が好きで、暗い小説ですけど、絶望の底の底に、なんとも言えない不思議なヒーリング効果があります。
木村:この時期から、平野さんは飯田橋文学会に参加したりと、同時代の作家の方々との交流が増えたと思いますが、こういった活動が読書に与える影響はありましたか?
平野:飯田橋文学会の存在は大きいですね。いい仕事を現在進行形でしている人たちと交流しているなかで、読むようになった本は沢山あります。
過去の歴史を紐解いても、それぞれの時代に文学のコミュニティが重要な役割を果たしているんですよね。19世紀だと、コミュニティがマニュフェストとセットになって、文学運動や芸術運動が起こっていました。僕自身、そういうアーティスト同士や作家同士の密な関係への憧れがありました。
それに比べると、現代は同時代の作家同士が話す機会が全然なくて、あったとしても文芸誌の対談くらい。そこで、定期的に交流できる場を作りたいと思って、最初は英米文学者の人たちと話し合いながら飯田橋文学会を立ち上げたんですよね。
木村:作家同士がどう繋がっているか、そこでどんな会話が交わされているかが可視化されることで、私たちはまたひとつ、読書の幅を広げるきっかけを得ます。なので読者としても、飯田橋文学会の存在は頼もしく感じていました。さらに次は、作家と読者が集える場として『文学の森』を平野さんが立ち上げる。こちらも楽しみですね。
平野:ありがとうございます。どういう場に発展するかはわかりませんが、僕にとって重要な場になるだろうと思っています。文学の森では、今日話したような内容を、また改めて話せると面白いかもしれませんね。
(聞き手・ライティング:井手桂司)
木村綾子(きむら・あやこ)●作家・本屋「B&B」スタッフ。1980年静岡生まれ。明治大学政治経済学部卒業後、中央大学大学院にて文学修士課程修了。雑誌の読者モデルを経て、タレント活動を始める。現在は小説・エッセイ・評論など文筆業を幅広く行っている。太宰治関連の著書、テレビ番組やイベントにも出演多数。
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【文学の森】本オープンは7月1日。小説家の案内で、古今東西の文学が生い茂る大きな森を散策する楽しさを体験してみませんか?ご参加をお待ちしております。