
今年は三島由紀夫の生誕100年という節目の年です。今回は、あえて代表的な長篇ではなく、短篇作品に焦点を当てて語ってみたいと思います。三島といえば『金閣寺』や『豊饒の海』といった長篇がよく知られていますが、短篇にも実に魅力的な作品が数多くあります。
今回取り上げるのは、『花ざかりの森・憂国』(新潮社)という、三島自身が選んだ短篇を収めた自選集です。僕は10代の頃、この短編集が大好きでした。文章の美しさ、比喩の豊かさに圧倒され、「いつかこんな日本語を書けるようになりたい」と憧れたのを覚えています。そうした個人的な思い入れも込めて、この短編集を取り上げたいと思います。
【『詩を書く少年』――「正直さ」が三島文学の魅力】
最初に取り上げるのは、『詩を書く少年』という自伝的な短篇です。主人公の「自分のことを天才だと信じて疑わない少年」は、現実世界を詩の言葉によって美化することで、幸福感と恍惚感を感じています。三島は生涯にわたって、「芸術」に生きることと「現実」を生きることを二項対立的に捉えていて、最期まで楯の会での政治活動と文学者としての創作を、両立させようとしていました。そういう意味でも、この作品には三島の芸術観・文学観が色濃く反映されていると思います。
作中の、学習院中等科時代に文芸部の先輩と交流があったという設定は、事実に基づいています。全集に収められている書簡などから、三島が坊城俊民という5歳年上の先輩と頻繁に手紙をやりとりしていたことが分かります。ただ、やがて三島が小説家として頭角を現し、彼のほうがその関係に物足りなさを感じるようになる。一方、坊城のほうは三島に魅了され続け、晩年には再び関係が修復されて、食事をともにするような交流もあったようです。
この作品には、そうした10代の自分に回帰するような心の動きが表れていると思います。主人公の少年は、普通なら鼻持ちならないタイプですが、やがて「自分は本物の詩人ではなかった」と気づきます。そのプロセスが、うぬぼれと、それをアイロニカルに見つめる視点の両方から、じつに正直に描かれている。『仮面の告白』というタイトルの作品を書いた人とは思えないほど率直で、この「正直さ」は三島文学の大きな魅力の一つだと思います。
「彼は自慰過多のために貧血症にかかっていた」というちょっとした件など、滑稽なようでもありますが、10代の僕はこの一文を読んで、「文学って、正直な世界でいいな」と感じたのを覚えています。
【『海と夕焼け』――「奇跡が来なかった」ことの不思議】
次の『海と夕焼け』という作品は、僕が少年時代にいちばん好きだった作品なんです。ほとんど暗記するくらい何度も読んで、特に鎌倉の海が夕焼けに染まる描写は印象的でした。
作品のモチーフとなっているのは、「少年十字軍」の逸話です。13世紀のヨーロッパで、神の啓示を受けた少年たちが、「海が割れてエルサレムへ渡れる」と信じて旅に出る。しかし奇跡は起こらず、多くの子どもたちは溺れるか、奴隷として売られてしまう。
三島はこの作品のなかで、「奇跡を待望する心情」を、第二次大戦末期の「神風」幻想と重ねて描いています。敗戦が濃厚となった時期、多くの人々が「神風が吹いてくれるはずだ」と信じ込まされていた。しかし、奇跡は起きず、日本は敗れた。普通なら「騙されていた」と割り切るところですが、三島は「なぜ奇跡が起こらなかったのか」という問いをどうしても手放すことができず、強くこだわり続けました。非合理なはずのその感情が、この作品では非常に美しく描かれています。
何かを純粋に信じ、信じたまま死んでいく人々――三島はそうした存在に対して、複雑で屈折した感情を抱いていました。徴兵を免れたことで、自分だけが命拾いしてしまった。その理由が「身体が弱く、そして正直ではなかったからだ」という自覚が、彼の中に深い劣等感として残り続けました。戦後、多くの人が新しい社会に適応していくなかで、三島だけはその価値観にどうしても馴染むことができなかった。
ごく短い作品ながら、三島由紀夫という人物を理解する上で非常に重要な、見過ごせない一篇だと思います。
【『橋づくし』――最期を予告するかのような主題】
『橋づくし』は、軽妙で洒落た短篇で、エンタメ的な面白さを持った作品です。舞台は銀座。三人の芸者が、「同じ道を二度通らずに7つの橋を渡ることができれば願い事が叶う」という願掛け遊びをします。そして、「渡り切るまで誰とも口をきいてはいけない」「願い事を明かしてはいけない」といったルールがある。
まず面白いのは、芸者という色気のある世界に、「お腹がすいた」「お腹が痛い」といった生理的な描写が入り込んでいる点です。色気とは程遠い感覚が、非常にコミカルに描かれています。
一方、詳しく読むと、この作品もまた「願望」が主題になっていて、「現実と理想とのギャップ」という三島がこだわり続けた主題を読み取ることができます。この願掛け自体は、なんら根拠のない迷信です。登場人物の一人である「かな子」は、ある役者に恋をしていて、いつか想いが通じることを願っていますが、それが叶う可能性はほとんどない。それでも「橋を渡りきれば叶うかもしれない」と妄信して、必死になって取り組む。これは第二次大戦中に日本人が経験した、非合理な努力や命令――たとえば竹やりで戦闘機を落とす訓練のような――への風刺も感じられます。
また、登場人物たちは、「あの人と結ばれたい」とか「お金がほしい」という目的のための手段として橋を渡りますが、次第に「手段」と「目的」を混同していって、「とにかく橋を渡りきる」ことが目的になっていく。これは三島の晩年の政治活動――とくに憲法改正を訴えての自決――とも重なる部分があります。本当に彼が訴えたかったのは憲法改正だったのか、あるいは割腹自殺すること自体が目的だったか。「割腹自殺するために憲法改正という”目的”をこじつけたのではないか」と疑問を呈する声は今でも多く、たしかに、憲法改正のために自決するという理屈には無理があると思います。
もちろん、三島自身がこの作品を書いた当時に、後の自決のことを考えていたわけではないでしょう。しかし、のちの三島事件を知る私たちの視点から読むと、どこか予告的な内容に見えてしまいます。
【一人の作家をまとめて読む喜び】
やはり僕は、「自分がいいな」と思った作家の作品をまとめて読むことこそ、文学ならではの楽しみの一つだと感じています。
たとえば三島由紀夫も、一作だけ読むのと、複数の作品をまとめて読むのとでは、印象が大きく変わってくる作家だと思います。今日取り上げた短篇についても、他の作品と関連づけながら解説しましたが、そういう読み方をすることで、作品の理解がぐっと深まるんですよね。
これは詩人についても同じで、たとえば谷川俊太郎さんのように、一篇だけでもわかりやすく、深みのある詩を書く人もいますが、僕が好きな象徴派の詩人たちや、そこから影響を受けた20世紀の詩人――たとえばパウル・ツェランのような詩人になると、一篇だけ読んでも何を言っているのか正直わからない。難解すぎることが多いんです。でも、詩集を二冊三冊と読んでいくうちに、繰り返される比喩や独特の思考方法がだんだん見えてきて、それらの詩のあいだで響き合うものがあることに気づくことができます。
好きな作家の作品をたくさん読むことで、初めてわかってくることがある。それと同時に、その作家が生きた時代や、その背景にある思想や文化にも触れることで、自分の認識が広がり、ものの考え方が変わっていく。そういう経験は、単なるエンターテインメントとして消費する読書とは違った深い読み方として、大切だと思います。