平野啓一郎をナビゲーターとして、古今東西の世界文学の森を読み歩く文学サークル【文学の森】。
2023年11月は、小説家・島田雅彦さんをゲストにお招きし、安部公房文学をテーマにライブ配信を行いました。
中学生の時に安部公房作品を読んで衝撃を受け、デビュー後には生前の安部公房氏とも接点があった島田雅彦さん。その時の思い出話や、『箱男』の魅力、ポストモダン文学についてなど、充実の対談となりました。
▶︎安部公房文学は一度は通らないといけないトンネル
▶︎対面した時の思い出
▶︎『箱男』は雑居ビルのような作品?
▶︎「ポストモダン文学」とは何か?
一度は通らないといけないトンネル
平野啓一郎(以下、平野):安部公房が生誕100年を迎えるにあたり、あらためて注目を集めています。島田さんは、安部公房作品をいつ頃から読み始めましたか?
島田雅彦(以下、島田):私が文学に目覚めたのは中学生の頃です。安部公房や大江健三郎は、生前からすでに全集が出ていました。なかでも安部公房の全集シリーズは図書館内の一等地の本棚にあり、手に取りました。
平野:最初に読んだ作品を覚えていますか?
島田:『壁』ですね。なんだこれはと思いました。文学少年が最初に手に取り、インパクトを受ける本というのは、その後の道筋をある程度決めてしまうので、とても危険ですね。その意味では、安部公房を手に取ってしまったのは、何か運のツキという感じがしないでもない(笑)。おかげで、非常に強い免疫ができた感じがします。高校生の頃から新興芸術派とか、夢野久作にも手を出すことになった。安部公房の免疫のせいで、「太宰治なんてくだらない」などと思うようにもなっていましたね。
平野:安部公房の影響によって、太宰のような内面吐露の私小説より、アバンギャルドな方向性に進んだのでしょうか。
島田:私小説もその後書きましたが、日本の私小説というのは、田山花袋の『布団』という作品から始まっているという不幸があります。貧乏くさい、性格破綻者の愚行の記録のようなジャンルになってしまったから、そんな道をティーンエイジャーは進んではいけないと思う(笑)。安部公房が引いてくれた形而上学的な道、存在論は、十代のうちに通らないといけないトンネルですよ。
安部公房と対面した時の思い出
平野:島田さんは、生前の安部公房と直接会って話したご経験をお持ちですが、そのきっかけは何だったのでしょうか?
島田:文芸誌『新潮』が累積で1000号になり、それを記念して、巻頭グラビアをやることになりました。特集企画で、新旧世代の交歓というテーマです。そこで安部公房と私がカップリングされたんです。その前に私が安部公房作品の書評を書いて、ご本人も「あいつはよくわかってる」と認識していただいていたようで、それがきっかけです。当日、「書評を書いた島田でございます。」と挨拶して、初めて言葉を交わしました。
平野:安部公房の文壇での存在感というのは、当時どういう感じだったんでしょう?
島田:それが、ご本人の存在は希薄なんですよ。もちろん文壇での地位は揺るがない存在でした。「賞男」という異名を取るぐらい、国内の文学賞を取り尽くし、世界にも翻訳もされてノーベル賞受賞も有力視され、文豪の名を欲しいままにしていました。ただ、あの人自身が「箱男」だから。ほとんど引きこもっていたんです。
平野:対面した時に、どんな会話をされたか覚えていらっしゃいますか?
島田:写真撮影が終わると、神楽坂に寿司を食べに行くことになったんです。でも文学の話は、これっぽっちもしないんですね。シンセサイザーとか写真とか、趣味の話ばかりでした。当時シンセサイザーは日本に3台しかなくて、冨田勲とNHKと安部公房が所有していたんです。それから、当時600万円したIBMの日本語ワープロの初号機も所有して、1980年代終わりくらいからワープロで原稿を打っていました。自動車のタイヤのチェーンの発明をしてその特許を取得した話なども。
文学の話はしないのかなとか思って、「ロシア文学だとどの辺りがお好きなんでしょうか?」と伺ったら、「みんな、ドストエフスキーがどうだとか文学の話をしてるようだけれども、本当に読んでるのかね。馬鹿がそんなことわかるわけないと思うんだな」とか言うんですよ。「それでも先生の作品から察するにカフカには一目置いてらっしゃるんじゃないですか」と振ったら、「私が思うにね、人類はカフカが理解できるほど賢くないよ」と(笑)。面白い人でしたね。
『箱男』は雑居ビルのような作品?
平野:『箱男』については、どういう作品だと考えてらっしゃいますか?
島田:野心作だと思いますよ。たった300枚ぐらいの中で、語りの位相が次々と変化していき、写真まで入って、謎めいていきます。その意図をどういうふうに読み取るか。独特の魅力を放っている作品ですね。
平野:かなり読者を混乱させるような書き方になっていますが、島田さんは、どのように読み取りましたか?
島田:実は、そんなに難しく考える必要はないと思っているんです。間口が狭い雑居ビルのイメージでこの作品を捉えるといいんじゃないかと。路面にはラーメン屋とかカフェが入っていて、エレベーターで上がっていくと各階にいろんな種類のお店が雑居している。怪しげな法律相談所とか、会計事務所とかがあったり、更に階上へ行くと探偵事務所があったり。一つのビルなんだけれども、フロアや部屋が変わると、ドアの向こうに全く別の、普段全く接点がないような他者がそれぞれよろしく暮らしている。ところがそこで何か変な病気とか流行が発生すると、1階からだんだんと上階へじわじわ広がっていくというような。そんなイメージでこの『箱男』という作品を捉えています。
平野:ラストで、突然路地みたいなところに出て行く辺りとか、確かに雑居ビルを抜け出たような感じがありますね。安部公房作品の登場人物は、閉鎖空間の中にいることの安定と、そこからの脱出願望という両義性の間でいつも揺らいでいる。『砂の女』では、砂丘から脱出しようとするけど、最後にはその中に留まる方に心が傾く。『箱男』も、箱の中から出ようとするけど、出てしまうと不安になる。そして『壁』ではタイトルの通り壁になってしまうことで、その両方の狭間に存在を留めることになります。
島田:閉鎖空間の中で生きやすくする工夫を考えたり、脱出しようとするんだけど、メビウスの輪のように内と外が逆転するという現象が、安部公房の作品ではよく起きますね。
「ポストモダン文学」とは何か?
————島田さんはデビュー当時から「ポストモダン文学の騎手」として注目を集めてきましたが、ご自身にとって、”ポストモダン文学”とは何なのでしょうか?(参加者より質問)
島田:モダニズム(近代主義)というのは本来、科学技術の向上とか、基本的人権の確立とか、大きな努力目標があって初めて成立するものです。例えば1970年の万博は、挫折した近代化をやり直し、戦後復興と経済成長を達成して、優れたメイドインジャパンを打ち出せるようになったことを世界にアピールする大きな目的がありました。
それがその後、機能しなくなっていく中で、大きな物語を新たに作らないといけないとなった。しかし、大きな物語でなくて、逆に小さな物語を無数に展開していくというやり方もあるのではないか。ポストモダンというものが脚光を浴びた時には、このような方針転換があったのではないかと考えています。
要するに国家的な規模の物語を追求するのではなく、──それはどのみち川端や三島のように、”空虚”という壁に跳ね返されてしまうのだから──無数の小さな物語を、礫(つぶて)のように投げつけて、それである種、殺されずに済むようにする。どうせ金持ちになったって、金持ちに幸福な人はいませんので、自分の趣味に生きて、好き勝手いろんな物語を書き散らかすと。そういうスタンスのことだと、今私は再定義しております。
平野:今日は興味深いお話をしていただき、本当にありがとうございました。とっても楽しかったです。
(構成・文:水上 純)