平野啓一郎をナビゲーターとして、古今東西の世界文学の森を読み歩く文学サークル【文学の森】。
2023年7月の「深める文学作品」は、オスカー・ワイルド『サロメ』(光文社古典新訳文庫 / 平野啓一郎訳)です。
かつては森鷗外が翻訳し、リヒャルト・シュトラウスがオペラ化し、三島由紀夫が生涯にわたって愛読し……と名だたる芸術家を魅了し続けてきた『サロメ』とは、一体どんな作品なのか。
作家としての影響のみならず、翻訳を通じて『サロメ』と向き合った平野啓一郎が、解説します。
▶︎ワイルドに興味を持ったきっかけ
▶︎「人生が芸術を模倣する」とは?
▶︎ワイルドはサロメに自分の苦悩を投影していた
▶︎身振りをつけて表現するための余白を残す
▶︎あえて原文通りに訳さなかった箇所がある
ワイルドに興味を持ったきっかけ
平野啓一郎(以下、平野):僕は十代の頃、三島由紀夫が好きでした。三島は25歳のときに『オスカア・ワイルド論』という才気ほとばしるエッセイを書いています。その影響もあり、デカダンスの代表的な作品であるワイルドの『サロメ』を新潮文庫の西村孝次訳で読み、ビアズレイの挿絵が見たくて岩波文庫の福田恒存訳も買いました。
大学入学後、京都でギュスターヴ・モローの大回顧展がありました。モローが描くサロメは豪奢で頽廃的なイメージでした。当時、20世紀末の閉塞感もあり、シュールレアリスムやデカダンスに関連する書籍が発刊され、折しも講談社文芸文庫から刊行された日夏耿之介訳の瑰麗な訳は、三島の舞台にも用いられており、魅了されました。
そんなわけで、何種類かの『サロメ』を読みました。また、その頃、大学の英語の授業で『芸術家としての批評家』を、さらに『社会主義下の人間の魂』を伴わせ読み、批評家としてのワイルドにも興味を持ちました。
「人生が芸術を模倣する」とは?
──興味を持っていたワイルドの思想はどのようなものでしたか
平野:嘘と本音との関係を論じている部分に関心を持っていました。三島の『仮面の告白』もワイルドの影響ですが、僕自身、アイデンティティに関わる部分を悩み考えていた時期なので、ワイルドの逆説が非常に新鮮に感じられました。
例えば、一般的には芸術が自然を模倣し、作品が出来上がると思われているけれど、むしろ自然の方が芸術を模倣するとワイルドは云っている。要するに、僕らが自然を見るときに、芸術体験を通じた認識のフレームで、自然を見ることになっていると主張しています。10代の多感な頃に読んで、その言い回しにシビれ、感心しました。
また、ワイルドは露悪的なところもある一方で、『幸福な王子』などの作品には何かホロッとさせられ人情味を感じる。『社会主義下の人間の魂』を読むと、社会の偽善に対する憤りと正義感が伝わってきます。
──サロメを翻訳することになった経緯と、平野啓一郎訳の特色とは
平野:宮本亞門さんが三島の熱烈なファンで、その関連で以前より交流がありました。亞門さんが『サロメ』を上演する時に、ワイルドを現代に蘇らせるような新しい翻訳をしてほしいと依頼を受けました。ワイルドはほとんどの作品を英語で書いていますが、『サロメ』だけはフランス語で書いています。それまで日本語で刊行された『サロメ』はどれも英語からの重訳だったので、今回は、フランス語の原文からの翻訳を、ということでした。
フランス語の原文は非常にシンプルな文体で書かれていて、あまり英訳と変わりませんが、サロメの言葉のたどたどしい子供っぽさは、英訳より感じ取りやすいかもしれません。ですから僕の翻訳では、サロメの少女的な純粋さを強調しました。
ヨカナーンがしきりにサロメを妖婦のように扱うことに対しサロメは怒り、自分は純潔だと主張します。ワイルド本人も露悪的に振舞っていましたが、社会からの認識に対して、本当の自分はもっと純粋な人間であることの反映なのではないかと考えながら、サロメを翻訳しました。
ワイルドはサロメに自分の苦悩を投影していた
平野:ヨカナーンがサロメを拒絶する理由は何なのか、明確には書かれていませんが、僕は、キリスト教の一つの核心である「原罪」をテーマにしているのだと思っています。人間はアダムが犯した罪を「原罪」として生まれながらに持っている。だからサロメは処女のように描かれてるにもかかわらず、母親が露骨に示してるようなへロディア的なものを無自覚に持っている。
だからサロメはあどけなくヨカナーンに話しかけているにもかかわらず、キスしたいという性的な欲望が現れてくると、ヨカナーンは非常に厳しく批判してサロメを傷つけてしまう。それはワイルド自身の投影ではないでしょうか。彼自身が最終的には同性愛を告発されて投獄されますが、サロメがピュアであるように、ワイルドは自身の善性を信じていたと思います。当時はそういう欲望を抱えていること自体が「悪」として見なされていましたが、本当にそういう見方が正しいのだろうかと、社会に問いたい気持ちがあったのではないでしょうか。
ワイルドの童話や、『ドリアングレイの肖像』などの他の作品にも、「二重性」が描かれていますし、評論でも、「仮面」や「嘘」といった、表面的なものと本質的なものがテーマになっています。
『サロメ』では、表面的なサロメと、本当の彼女をテーマにしています。物語の前半では、非常に純粋に描かれながらも、その内側にある一種の原罪的な欲望をヨカナーンが厳しく指摘します。最後は内なる欲望が爆発したような残酷な行為に及びますが、そのときこそ彼女の中の純粋性が、そのセリフの中で逆説的に際立ちます。この”反転”が、物語の転換の中では重要なんだと思います。
──『サロメ』が三島に与えた影響をどうお考えですか
平野:三島の『仮面の告白』では、血生臭いものと性的なものとが結びついて描かれていますし、また三島が最期を遂げるときにも介錯がされていて、ああいう表象に三島は非常に強い関心を示してます。ヨカナーンの斬首の場面は、そのイメージの中に含まれる光景の一つだと思います。
もう一つは、『三島由紀夫論』の「あとがき」にも書きましたが、ヘロデ王は絶対的権力者だから、前言撤回して、サロメの願いをつっぱねてもいいはずなのですが、「わしは、自らの言葉の奴隷だ」と言って、有言実行にこだわり続け、何とかサロメに心変わりしてほしいと一生懸命に働きかけます。
三島的な価値観はこれに非常に強く結びついてると思います。三島はヘロデ王的なところがあり、言ったからには実行しなければならないと、強く信じていた人です。「あれほど左翼学生の行動責任のなさを弾劾してきた小生としては、とるべき道は一つでした。」(三島由紀夫「倉持清宛ての封書」より)と、遺書のような手紙に書いています。
三島の事件には、純粋に政治的な行動だとどうしても解釈しきれないグロテスクなところがあります。介錯されて亡くなることを計画していた上で、その後にサロメを上演して、首がワーッと上がってくるような舞台演出をしている。それは純粋に政治的な行動として三島の最後を評価しようとしてた人たちに、何か回収しきれないものを突きつけるような意図があったと思いますね。
身振りをつけて表現するための余白を残す
──「訳者あとがき」で、「登場人物の心の動きは行き詰まるほどに緻密だが、台詞自体には俳優演技とよく絡む隙があり、私はそれを言葉で埋めすぎないように気を遣った」とあります。具体的な例や工夫したところを教えていただけますでしょうか?
平野:まず小説の会話文は、話し言葉に書き言葉を混ぜて書くと結構スムーズに読めるものだと思います。文字は等間隔のリズムで紙の上に置かれていきますが、実際の話し口調は、接続詞の「だから」を早く言ったりなど、テンポが早くなったり遅くなったりします。それをそのまま文字にすると不自然ですよね。
舞台の台詞は、話しながら演技ができるような言葉でないといけないと思います。言葉だけでなく、身振りで補うことでニュアンスが伝わるような余白を残す必要がある。そういう意味では、あまりに詩的に磨き上げた文体にしてしまうと、俳優の体が自然に動いていかない気がするんです。洗練させすぎないことを洗練させるというか(笑)
あえて原文通りに訳さなかった箇所がある
平野:『サロメ』は視線のドラマで、相互に見るのではなく、一方的に見ることの悲劇性があるので、その視線を伴う動きのことはよく考えました。例えば、自殺した若いシリア人に、同性愛的に心を寄せていた若者が話しかける場面では、フランス語版、英語版だと「彼は」こうだった、ああだったと書かれてありますが、「彼は」こうだったと言うと、みんなに訴えるようなニュアンスになります。しかし「君は」にすると、役者が倒れたシリア人に向かって話しかけてるという動きになるので、視線もシリア人に向きます。
また、三人称の言葉として「彼」は日本語としてこなれないところがあり、僕はあえて「君は」と訳しました。どういうふうに役者が演技しながら喋るかということを結構考えましたね。
(構成・ライティング:田村純子)