平野啓一郎をナビゲーターとして、古今東西の世界文学の森を読み歩く文学サークル【文学の森】では、3か月ごとに「深める文学作品1冊」をテーマとして定めています。その作品に関し、1か月目は「平野啓一郎が語る回」、2か月目は「平野啓一郎がゲストと語る回」、3か月目は「読者と語る回」を開催します。
7月クールの「深める文学作品」は、トルストイ『アンナ・カレーニナ』。この記事では、9月30日に開催したライブ配信「平野啓一郎が『アンナ・カレーニナ』内外をフリートーク」のダイジェストをお届けします。
読者と平野啓一郎による、刺激的なQ&Aのやりとりをお楽しみください。
Q1. 二人の主人公が登場するメリットは?
──『アンナ・カレーニナ』には、アンナとリョーヴィンという二人の主人公が登場しますが、小説で主人公を二人設けることは、創作上どのような良さ、難しさがあるのでしょうか?
平野啓一郎(以下、平野):まず良い面としては、コントラストをつけることで、それぞれの人物がより際立つ効果があると思います。
僕の『葬送』という小説では、ショパンとドラクロワを対等な二人の主人公として書きました。ショパンは1830年から48年までの七月王政期とぴったり同じ時期に活躍し輝いた芸術家で、ドラクロワはそれ以前の王政復古期から第二帝政期までの間を、画壇からの高評価は得られずとも、時の権力者と絶妙にうまく付き合いながら生き延びた芸術家でした。対照的な人物を同時に主人公にすると、それぞれが相互に引き立って、その生き様や意味がよりよく理解できる効果を生むと思いますね。
二人の人物の視点を組み合わせて物語を進めることで、読者が気分転換できるような工夫もできます。『アンナ・カレーニナ』の場合は、アンナの話だけひたすら書いていくと、アンナが精神的に辛く危うくなり、悲しい最期を迎えるので物語の終わり方も難しいのではないでしょうか。一方でリョーヴィンの話が進行して、結婚し紆余曲折もあり、精神的な危機に陥っても、最終的に肯定的な思想に至って終わると、希望を感じられますよね。二人の主人公がいると、物語を単調にせずに、両者にストーリーを配分して、そのバランスの中で全体の構成を考えられるところが良いところだと思いますね。
映画化される『ある男』でも「X」という「ある男」は亡くなってしまっていて、主人公ではない。そのことにフォーカスすると寂しい感じもしますが、他の人物もフォーカスされ、最後に子供の未来に希望があるような形で終わると、読者としては物語の終わりに納得しやすくなる。そういうバランスを取るという意味で、主人公二人というのは、一つのやり方だと思います。
──書く側としては、主人公が二人いることの難しさはありますか?
平野:両方の人物がうまく描かれ、魅力が拮抗している必要があります。そうでないと、読者に「またこっちの話が始まった。早く終わらないかな」と思われてしまう。また、それぞれの話がバランスよく書かれていないと、「結局どっちの話なの」と読者を混乱させてしまう恐れもあると思います。
Q2. アンナの不倫にだけ厳罰なのはなぜ?
──物語の冒頭に「復讐するは我にあり」という聖書の一文があります。この物語でアンナは不倫をしたことで神に裁かれてしまいますが、女性(アンナ)の道ならぬ恋には厳罰で、男性(オヴロンスキー)の浮気には寛大なのは、納得がいきませんでした。トルストイ自身はアンナに同情しているように感じるだけに、不可解です。
平野:聖書の「復讐するは我にあり」という言葉は、罰を与える権利は神だけにあり、人間が人間に対してジャッジをしたり、復讐してはいけないということだと思います。
しかしアンナとブロンスキーが追い詰められていくのは、徹底的に”世俗的な罰”によってです。社交界から爪弾きにされて、大勢から軽蔑されることに苦しむようになります。アンナが、信仰において自分のやってしまったことに悩む場面は、ほぼありません。つまりアンナを追い詰めたのは人間社会であって、人間社会はおっしゃる通り、男の不倫には寛大です。その風潮は、最近は少し変化もありますけれど、今に至るまで連綿と続いています。
トルストイはこの様な社会や人間のあり方自体を問題提起していて、アンナをそこまで追い詰めるような人間社会は、やはり間違っているのではないかと言おうとしていたのだと思います。女性であるアンナだけがあまりにも過酷な運命に至っていることに対して、それは人間が人間に対してすべきではないということを、僕は読み取りました。
Q3. 小説の構造をどのように作る?
──登場人物の細かな心理描写に感心しつつ、労働や思想、宗教や社会批判など、様々な要素が重層的に描かれていることに気づきました。解説では建築にたとえられており、平野作品のレイヤー構造を想起しました。小説の構造を平野さんはどのように作られますか?
平野:小説を書く時には、積層的なレイヤー構造を考えて作っています。トップのレイヤーは、いわゆる「プロット」の部分で、そこはなるべくシンプルに、すっと伸びやかな線書きのように仕上がっていることが、僕にとっては理想なんです。表面的に複雑なストーリーで思想がないという作品より、表面はシンプルで綺麗に仕上げながら、その奥に複雑なものがある方が自分は好きなんです。何よりもまず、小説は面白くなくちゃいけないと思っていて、それはプロットのレイヤーで表現します。
『マチネの終わりに』は、二人の主人公が出会って離れてまた出会うという、究極的に単純なイメージなんです。プロットのレイヤーだけを楽しみたい人は、それだけでも楽しめる作りになっています。その下層に社会的な問題や、思想的な問題など、ある種のアポリア、どうしても解決しようのないような問題が積み重ねられています。そこにアクセスできるポイントを作っておいて、読み取りたい人は下層のレイヤーにアクセスしながら楽しむことができる。特に第3期の終わりから第4期までは、そういう構造をイメージして小説を書いてきました。
『アンナ・カレーニナ』も、ブロンスキーとアンナが出会って一旦離れてまた出会うという、シンプルな物語の筋があるから面白く読める。しかしところどころに議論や心情描写などで深いレイヤーにアクセスしていくようなポイントがあり、そのポイントの下層を見れば、すごく大きな世界の広がりが見えるという作りになっている気がします。
『ドーン』の頃は、それぞれのテーマを一直線に繋いでいくようにして、それでも読み進めたいという気持ちが持続するように、テーマの出し入れを工夫していました。しかしそうするとプロットが寸断され、その間に入ってる重要な議論は、「関係ない話が始まった」と読者に捉えられやすい。複雑な設定の上に登場人物たちの動作を描こうとしたときに、キャラクターの線を太く濃くしても、背景の複雑さの中に埋もれて際立たないから、どんどんどんキャラクターの輪郭線を強調することに、随分と悩んだんです。もうちょっと違うやり方でうまくできることに気づいて書いたのが、その後の『かたちだけの愛』でした。
『かたちだけの愛』では、義足のデザインのことを書きました。例えばUI(ユーザーインターフェース)デザインでは、その中は複雑だけど、インターフェースは単純で操作しやすいようにできています。僕は、その美的な意匠とエンジニアリングが一体化してるデザインの発想の影響を受けました。一般向けに単純なインターフェースを提供しつつ、見えない部分にあるエンジニアリングの深部も、楽しみたい人は楽しめる。そういう構造で小説を書こうと考えたんです。それで、線形的ではなく積層的に重ねる構造で作っていった方がいいと考えるようになりました。
Q4. 読み手のことをどのくらい意識する?
──『アンナ・カレーニナ』は、章立てのテンポが良く、登場人物も入れ替わっていくため、長編でしたが続きが気になって読み進めることが出来ました。平野さんが小説を書かれる時、全体構成と細部をどういう順序やバランスで組み立てていかれますか?その際、読み手のことをどのくらい意識されますか?
平野:イギリス作家のE.M.フォスターが、ストーリーとプロットを区別して定義し、これはよく引用されます。「王様が死に、それから女王が死んだ。」というのはストーリーであり、プロットは、それを論理的な整合性をつけて効果的に読めるような形にしていく工夫で、ストーリーとは別物としています。
例えば『マチネの終わりに』では、蒔野が洋子と出会った日の夕食会の場面に、ちょっとしたエピソードを挿入しました。牧野が新幹線に乗ったら知り合いに会い、話しかけてもずっと無視されて、最後に人違いじゃないですかって言われ、ムッとしたんだけど、よく見たら本当に人違いだったという話。最初に人違いしてと言い、それに気がつかなくてずっと話しかけてたと説明すると、面白さ半減なわけです。「勘違いして話かけた」というのが「ストーリー」で、それをどういう順序で組み立てていくかというのが「プロット」なんです。ここでは、錯誤や勘違い、じれったさを感じるという読者に対する効果も考えながら、プロットを組み立てていくことになります。
何か印象的なディテールが最初に思い付いているという場合もあります。ちょっとしたやり取りの場面を書きたいと思うけれど、本当は細かなディテールは、やはり何か書いていかないとなかなか見えてこないところもあって、必然性もあって書き進めて行きます。しっかり書くことによって次に行けることもあります。後に一読者として読み返すとそんなに長くする必然性がなかったという部分もあります。例えば新聞連載だと、決められた状況下に書き進めて行くわけで、最終的な全体のプロポーションは、なかなか見通せないんです。連載終了後の単行本にする段階で、全体を読んで俯瞰したときに、ここの盛り上がる場面のボリュームをもっと大きくして、ここをちょっと引っ込めようなどと、全体調整をする作業が生じます。書く前に構想して書きながら、最終的には全体を見ながら調整することが必要な気がしますね。
──そういう工夫を考える際に、読み手の存在はどれくらい意識するのでしょうか。例えば、「自分はこういう書き方は好きだけど、読者が好きなのはこっちだろう」というような葛藤はあるのでしょうか。
平野:僕はあまりそういう考え方はしていないと思います。ただし終わり方については、最終的には読者も納得できる接点を探ります。
読者とは、マーケティング的に考えると消費者みたいに思いがちですけれど、この時代の何らかの問題を捉えて表現するなら、それを受け止めるこの時代を生きてる人間がどう反応するかというのは、表現者にとって非常に根本的な問題だと思います。
この問題は、浅くも深くもどうにでも捉えられます。浅く考えて、売れ筋狙ってこういうことやったらみんながやっぱり反応したみたいなレベルで考えることもできるかもしれないけど、文学はもっと複雑な問題を扱うものだから、果たして自分の書いてるものが通じるのかどうかということは考えますね。
Q5. 流行り言葉を小説の中で使うことは?
──以前、平野さんは「"気付き"という言葉を最近よく聞くが、自分は使わない」といったことをTwitterで書かれていました。今、たくさん生まれてきている新しい言葉について、また、それを小説の中で使うことについてどう思われますか?
平野:インターネットやソーシャルメディアの普及で、新しい言葉の広まりが早くなりました。昔はテレビやラジオとかで流行り言葉が使われると、それを真似して日常的に喋ったりしましたが、その会話自体はメディアにのらないので広まっていくのに少し時間がかかりました。でも今は誰かが使い出した言葉が、TwitterやFacebook、YouTubeなどで一般の人が発信する中でどんどん使われるので、新しい言葉も広まりやすくなっています。
違和感のある言葉もたくさんあります。最近よく聞く「半端ない」や「感謝しかない」も僕は使いません。
ただ一方で、正しい日本語に対する言葉の乱れだ、と指摘するような論調も実はあまり好きではありません。言葉というのはある意味、生き物で変化し続けていくもの。進化論じゃないですが、定着したものが残っていきますし、突然変異みたいに生まれてきても定着していかないものもあります。
『カッコいいとは何か』という本で書いたんですが、「カッコいい」という言葉が登場したのは‘60年代です。当時、三島由紀夫は「こんな言葉は最近よくある流行り言葉のひとつで、もう10年たったら誰も意味がわからなくなるに違いない」というような発言をしていたんですが、結局、今でも使われています。何が定着するかしないかは、なかなかわからないですよね。
小説においては、その時にしか通じない言葉を使うと、数年経った時、すごく古びてしまうんです。そういう意味では多少、言葉の選びは保守的にならざるを得ない。新品だと触り心地が悪いというか、ある程度、社会の中で手垢がついてこないとなかなか言葉っていうのはしっくり使えないところがあります。新しい言葉がどんどん生まれてくること自体は否定できないですが、うっすらと戯れて変化を楽しむぐらいがいいのではないでしょうか。
(ライティング:田村純子)
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