2022年7月22日、NHK文化センターにてオンライン講座「平野啓一郎の幸福論 ─『空白を満たしなさい』から考える」が開催されました。
NHKドラマの原作として話題を呼んだ小説『空白を満たしなさい』は、身に覚えないのない自らの「死」から生き返った主人公が、死の真相を知ろうとする中で、人間の幸福とは何かを追求する物語です。
この講演録では、平野啓一郎が作品に込めた思いを語りつつ、「幸福でなければという思いが人を追い詰める」「精神的には充実していても、肉体的な疲労は蓄積されていく」といった、「幸福」についての自身の考え方をお話ししています。
ぜひ最後までお楽しみください。
「もう一度会いたい」という思いを核にした小説
僕の父親は、36歳で亡くなりました。そのため、幼い頃から、自分もそのくらいの年齢で死ぬのではないかと思っていましたし、30代になるとより強く、36歳に近づいていくことが怖くなっていました。それで、自分が36歳になったら、父のことを主題にした小説を書こうと思っていたんですね。
僕が36歳を迎えたのは2011年。東日本大震災が起こって、非常に多くの方が亡くなった年でもあり、僕自身の子どもが生まれた年でもありました。
長年考えていた身近な人の死、身近ではないけれど非常に多くの方が亡くなられたこと、新しい命の誕生。その3つが並んだ時、生きている人間が死者に対して一番強く抱く感情は何だろうと考えていました。
「もう一度会いたい」。ただそれに尽きるのではないか、と思い至りました。
それで、「もう一度会いたい」という強い思いを核にして、亡くなった人が生き返るという設定で書いた小説が『空白を満たしなさい』です。
一人だけ生き返るのであれば、非常にプライベートな話になってしまうけれど、たくさんの人が同時に生き返れば、「個人的な話」ではなく、社会システム全体の問題として描ける。「復生者」と呼ばれる、たくさんの人が生き返る設定は、そんなふうにしてできました。
疲れていることに幸福を感じる危うさ
また、この小説を書く以前から、僕は「幸福」についても考えていました。
僕たちは、「何が幸福なのかわからない世の中」で、生に対する手応えを掴もうとしています。いつしか、経済的に豊かになることよりも、生きがいを持つことや、自分らしく生きることのほうが重要ではないか、と社会全体が考えるようになります。僕の中にも、その考え方がとても強くあるんです。
バブルに浮かれる日本社会を見ていた時から、お金持ちになるよりも、自分のやりたいことに夢中になって取り組んでいる人生の方が充実しているはずだ。それこそが、幸福なことであると感じていたんです。
バブル崩壊以降、日本が経済的に停滞し、ささやかな幸福を得るためでさえ、過剰なまでに働かなければならなくなっていって、だんだん、自分を酷使して働くことに充実感を覚えていくようになりました。
「仕事はつらいけど充実している」、「家族のために一生懸命働いている」といったように、ヘトヘトになるまで働くことに、幸福感を見出してしまった。
この考え方は、世代によってもかなり違いがあります。僕は、ワーカホリックであることに生きがいを感じる価値観を、かなり内面化していった世代なんじゃないかなと思います。
けれど、精神的には充実していても、肉体的な疲労はどんどん蓄積されていきます。必死で働くことでしか生きている実感を得られない状況が、人を追い詰めてしまうのではないかと考えるようになりました。
『空白を満たしなさい』では、そうした価値観を持った主人公を描いていますが、結局、主人公は自殺してしまいます。
幸福にならなければという思いが、追い詰めてしまう
主人公が自殺するまで追い詰められた理由の一つは「疲労」でした。現代人はみんな疲れていて、疲れていること自体が、生に対するつらさになっている。小説を書くにあたって取材をした精神科の医師からも、疲労には大きな問題があると聞きました。
小説の後半に出てきますが、多くの人が、メンタル的に疲れた自分を元気づけようと、マラソンに挑戦したり、海外旅行に行ったりするんですよね。しかし、楽しいはずのことをしても、肉体的に疲れてしまうと、かえって症状が悪化してしまうこともあります。
華やかなことをしている時が、必ずしも自分の体調がいい日ではありません。まず、疲労とどんなふうに自分が付き合っていくかを知ることが、とても重要になってくるのです。
疲労を抱えた主人公は自殺をしてしまうのですが、自殺の理由は「つらいから」だけではありません。
僕たちは、社会の中で「認められない存在」に対して、否定的に解釈し、否定的に対処していく価値観を、どこかで内面化してしまっています。だから、自分の中に「役に立たない自分」を見出したときに、社会と同じように、そんな自分を否定的に対処してしまう結果が、自殺に繋がってしまうのではないでしょうか。
とにかく「幸福にならなければ」という強い思いがある中で、「幸福ではない自分」を抱え込んだ時、「こんな自分では駄目だ」と、自分を否定しようとする力が働いてしまう。幸福ではない自分を消してしまいたいという衝動が、自殺に繋がっていくんじゃないかということを『空白を満たしなさい』では書きたかったのです。
「こうなりたい」と思う自分があって、そこに向かって人生を進めていくこともあるでしょう。ですが、そこに達することのできない自分を振り返って、「その原因が自分にある」と考え出すと非常につらくなってしまいます。
もし社会が、つらくて動けない人に対して「今はそういう時期だからゆっくりしたらいい」と、おおらかな態度を取ることができれば、自分に対しても優しくなることができると思うんです。だけど実際は、社会の中には厳しさがある。その厳しさを内面化してしまうと、「正しい自分」が、自分の中の「正しくない部分」に対して暴力的になってしまうのです。
自分の良くないところを見つけて改善していくことが、人生の進歩である側面はもちろんありますが、どうしようもない部分もあると思えるようになること。ちょっとすっきりしない、さじ加減みたいな話になりますが、ネガティブなことに対して過度に否定的にならないというのも、大切なのではないかと思います。
幸福は、ふと感じるもの
加えて、幸福という概念を、絶対に否定できない目標のように設定してしまうと、人を駆り立ててしまい、より、幸福から遠ざけてしまうのではないでしょうか。
目的として幸福を追求することについては、文学の中でも大きな主題として描かれ続けてています。スタンダールの『パルムの僧院』は、まさにそれを主題とした小説です。
目的化されることによって、幸福とは何かがわからなくなり、幸福になること自体が非常に強いプレッシャーになります。幸福でなければいけないという価値観に追い立てられる状態には、苦しさがあり、虚しさがあります。だからといって、不幸でいいんだというふうに向かっていくこともできない。どっちつかずの状態の中に投げ出されている。
幸福を目標化すると、人を追い詰めてしまうものになってしまいます。
また、幸福には、絶対的な価値観、絶対的な基準がなく、相対的なことにならざるを得ません。そうすると、人と比べてしまい、嫉妬心が生まれ、劣等感も掻き立てられます。SNSなどを見て、人と自分の状態を比べて、不安になる人も多いのかもしれませんが、それは、ゴールのない競争です。どこまでいっても、満たされることがないものです。
幸福が相対的であるとすると、他者から自分がいかに承認されるかが重要になってきます。他者とどれだけうまくやっていくか、他者が自分のことをどれだけ承認してくれるかということが、自分の存在意義の確認になってしまうのです。
幸福というのは、非常に扱いが難しい。絶対的に想定されるべき価値として、自明視して扱ってしまうと、社会にとっても個人にとっても非常につらい価値観になってしまうのではないかと思います。ある意味で非常に繊細に、社会が扱わないといけない価値なのです。
幸福とは、何かの瞬間に「今、幸福だな」と、ふと感じるものだと思うんです。そのくらいのことでしか捉えようがなくて、目的論的には捉えきれるものではないと、僕は思っています。
(文:栗原京子)
ドラマ『空白を満たしなさい』
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小説『空白を満たしなさい』
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