息吹
齋藤息吹が、その日、池袋のマクドナルドでアイスコーヒーを飲んでいたのは、たまたまだった。
梅雨入り前の日曜日の午後だった。
一人息子の悠馬を塾の模試会場に迎えに行ったが、いつもならば、同じように子供を待つ父母らで溢れ返っている建物周辺に、まるで人気がなかった。出入口の係員に訊いてみると、解説授業の終了は三時十五分の予定だという。間違えて、一時間も早く来てしまったのだった。
息吹は、自分の間の抜けていることに呆れながら、どこで時間を潰そうかと考えた。
東京はこの日、夥しい光が降り注ぐ晴天で、空は青く、雲は白く、午後二時頃には、気温が三十六度に達していた。気候変動が進んで、少々のことでは驚かなくなっていたが、さすがにこの時期の猛暑日は異例だった。おまけに湿度が高く、白いポロシャツにカーキ色の短パンという気楽な格好の息吹も、駅から歩いてくる間に、胸や背中に不快な汗をかいていた。
周囲を適当に歩いていて、「かき氷」という青いのぼりの赤い文字が目に入った。
老舗らしい和菓子屋に、カフェ・スペースが併設されている。そう言えば、今年はまだかき氷を食べていなかった。自動ドアから、クーラーの効いた店内に入り、奥まで進んだが、順番待ちの客が七組もいると告げられ、諦めた。
その後、店を探したもののどこも混んでいて、結局、マクドナルドで、アイスコーヒーを飲む羽目になった。一人でマクドナルドに入ったのは、何年ぶりだろうか? 十年、……いや、十五年ぶりくらいかもしれない。学生時代は、彼も随分とマックの世話になったが、今では悠馬にねだられて店に入っても、ナゲットを一つ二つ摘まむ程度だった。
ハンバーガー自体は好物で、近年立て続けに日本に進出したアメリカの新しいチェーン店は、大方、試している。そういう店で、溢れんばかりのチーズやベーコン、滑り落ちそうなほど大きなアボカドの入ったハンバーガーを征服するようにかぶりつくようになって以来、要するに、マックはもう卒業してしまったのだった。
店内には、休日の午後でも、パソコンを開いて仕事をしたり、教科書や参考書を並べて勉強したりしている客が少なからずいて、コーヒーだけというのも、案外、珍しくなかった。時間が時間だからかもしれない。
窓が大きく、クーラーで冷えた店内には、午後の眠気を誘うような光が横溢している。
携帯を弄りながら、息吹は時折、店内をぼんやりと観察し、自分はもうこの世界には属しておらず、今日は本当に、たまたまここにいるのだと感じた。
ヒップホップ系の大きなTシャツを着た隣の若者二人が、各々片手にビッグマックを持って、椅子の背もたれに体を預け、足を組んで話し込んでいる。彼の席にまで漂ってくる、その匂いを嗅ぎながら、息吹は少し胸焼けを感じた。ビッグマックを自分で注文して食べることは、もうないだろうなと思った。彼だけでなく、彼が普段、つきあっている人たち――同年以上で、それなりの生活をしている彼ら――なら、恐らく「もう食べれないよね。」と、片目を瞑るように顔を歪めて、苦笑交じりに同意するはずだった。
それでも、この時、息吹を見舞った郷愁には、記憶システムに障害でも発生したかのような、戸惑うほどの目まぐるしさがあった。大学時代に一人暮らしの学生マンションで、床に広げてビッグマック・セットを食べていた光景から、後輩のバイト先の店をからかい半分に訪ねた時の光景、最寄りの店で、真夏に、上半身を紫色のキスマークだらけにした女が、タンクトップの白人男と列の前に並んでいた光景。……どれも、この十五年間、ただの一度も思い出されることがなく、それもそのはずで、今では何の役にも立たない記憶ばかりだった。
息吹は、そのどの一つに留まることも出来ず、ただ、それらが乱脈に展いてゆく大学時代の思い出に、しばらく心地良く浸った。
自分が歳を取ったことを感じた。こんながらくためいた記憶を次に思い出すのは、いつだろうか? それらは、今までしまい込まれていただけに、度々、思い出してみる記憶よりも、却って元のまま新鮮だった。死ぬまで自分の中に残り続けるのだろうか? あと四十年ほど? 老後に施設に入ってから、毎日ゆっくり回想するために、大事に保管しておくべきなのかもしれない。自分という人間がこの世に存在した、という事実の実体は、つまりはこんな経験の寄せ集めなのだった。
それにしても、昔のマドレーヌと紅茶の組み合わせには、ここまで強烈な記憶喚起能力はなかっただろうと、『失われた時を求めて』を読んだことがなく、ただ、「プルースト効果」という言葉だけを知っている息吹は考えた。どこか、ドラッグの作用のようで、マックのハンバーガーには、脳の記憶領域をハッキングするような、何か特別な化学物質でも含まれているのかもしれない。――息吹はそんなことを、真剣に信じる人間ではなかったが、きっとそのせいで、時々、無性に食べたくなるのだと、友達と冗談交じりに喋るのは楽しそうだった。
息吹の左隣には、彼と同年くらいの女性が二人、向かい合って座っていた。雰囲気から、彼女たちも、子供の模試が終わるのをここで待っているのかもしれない。席が近いので、話は嫌でも耳に入ってきた。
「久しぶりにこんな脂っこいもの食べてるのよ。」
「なんで? ダイエット?」
「大腸内視鏡検査でポリープを切除したから。」
「あー、言ってたね、検査のこと。」
「そう、それで、三個も取って。」
「えっ? 三個も?」
「そう。全部、ただのポリープだったんだけど、あると思ってなかったからビックリで。」
「へえー、わたしも行った方がいい?」
「絶対、行った方がいいって。ほっといたら、大腸ガンになるよ。」
「やだ、脅さないでよ。」
「だって、行かないから。」
「ちょっと、抵抗があるかな。」
「麻酔するから、寝てたら終わりよ。胃カメラは?」
「胃カメラはあるけど。」
「同じよ、じゃあ。行った方がいいって、絶対。八割くらいの人がポリープが見つかるってよ。わたしの行った病院、紹介しようか?」
「そうね、……行こうかしら、じゃあ。」
息吹は、素知らぬ顔で下を向いたまま、携帯で「大腸内視鏡検査」を検索した。
彼は毎年、人間ドックを受けていて、LDLコレステロールの値がやや高いことと、老眼が始まって視力が落ちていること以外は、特に問題なしという結果だった。ジムにも週に一度、通っていて、四十三歳にしては、さほど腹も出ていない。そういえば、オプションでそんな検査があった気もしたが、検便で引っかかったら受けるのだろうと思って、申し込んだことはなかった。
検索の結果、消化器内科の広告が大量に出てきて、そのうちのデザインのきれいなものを一つ選んでタップした。
「こんな症状のある方は、大腸内視鏡検査を受けてください。」とあり、排便時の出血や急な体重減少、腹痛、便秘、下痢、便が細い、……などと列挙されていたが、これなら誰でも一つくらい当て嵌まるのではないかという気がした。しかし、元々、胃腸が丈夫な息吹は、実のところ、そのどれとも無関係だった。
それでも、続く「大腸内視鏡検査のメリット」という項目に目を通していると、段々と、胸のうちに嫌なものが広がってゆくのを感じた。曰く、食の欧米化で日本でも大腸ガンの罹患率は増え続けている、特に牛肉やベーコン、ソーセージなどの加工肉はリスクが高い、男性の大腸ガン死亡率は、ガン全部の部位別統計の中で第二位である、年齢階級別では、三十代以上になると指数関数的に増加する。……
店内に立ち籠めるハンバーガーの匂いは、鼻腔の奥で重たく澱んで、いよいよ盛んに、彼がこれまで食べて来た加工肉の記憶を引っ張り出していた。飼い猫がタンスの抽出を漁っているような勢いだった。
そう言えば、少し前に、左脇腹に鈍痛を感じたことがあった。じきに治まって忘れていたが、あまり感じたことのない、一種、難解な疼きだった。大腸ガンは、初期にはほとんど自覚症状がなく、気づいた時には、かなり進行しているという。息吹は、さすがにその過剰反応を自嘲したが、しかし、笑いがサッと掃いてしまったあとにも、胸の底には、こびりついたような不安が残っていた。
彼は、広告の中から、評判の良い、実績のありそうな病院を調べて、麻布十番の自宅からも遠からぬ一軒を見つけた。医師は慶応出らしく、万が一の時には、大学病院とも連携して対処してくれるという。予約は二ヶ月先まで埋まっていたが、誰かがキャンセルしたのか、一箇所だけ、平日の午後に空いている枠があり、予定を確認すると、何とか都合がつきそうだった。みんなやはり、検査を受けているのだった。
その後は、悠馬を迎えに行く時間まで、ずっと大腸ガンについての情報を検索していたが、読めば読むほど不安になるので、止めよう、と携帯をテーブルに置いた。ネットで病気について調べ出すと、決まって、自分がもう深刻な病気であることが決まったような気持ちになってくる。「心気症」というのも、彼がネットで調べて知った精神疾患の名称だったが、恐らく多少、そういう傾向があるのだと思っていた。
融けた氷で薄まったアイスコーヒーをストローで吸うと、今、ガンになったら、家族はどうなるのだろうかと考えた。そして、小さく嘆息して、しつこく頭にまとわりついてくる考えを振り払った。
窓に蝟集する初夏の眩しい光は、網膜を通して彼の内側にまで差し込み、その心の影を濃くした。世界が明るいほどに、不安な人間の心が一層暗く翳るのは、心理的と言うより、そうした言わば光学現象なのかもしれない。
検査を受けて三個もポリープを切除し、今はぴんぴんしている隣の女性が、心底羨ましくなった。さっさと検査を済ませて、自分も早くあちら側に行きたかった。
店を出ると、クーラーで少し冷えた体から、堰き止められていた汗が一気に吹き出してきたが、その中には、先ほどの不安な想像によるものも混じっていた。
模試会場のビルの前には、遠くからでも、日傘を差した母親たちの群れが見えた。
子供たちが、塾の関係者に見送られながら、一人、また一人と建物から出てきて、たちまち人混みになった。リュックのストラップを両手で掴んで歩く悠馬を見つけると、大きく手を振った。
「どうだった?」
駆け寄ってきた悠馬は、いつものように、ただ、「うん、まあ、普通。」とだけ答えた。背中からリュックを引き取ってやると、身軽になって改めて父親を見上げた。
「パパ、大丈夫?」
「何が?」
「なんか、顔が蒼いよ。」
「そう? 別に大丈夫だけど。」
息吹は、幾ら何でも息子にまで心配される自分を、どうかしていると思った。そして、笑顔を見せると、友達に声を掛けられて先を行くその背中を、見守るようについていった。