ストレス・リレー
ルーシーは、英雄である。しかし、彼女はそのことに気づいておらず、周りの誰もそう思っていない。つまり彼女は、文学の対象であり、小説の主人公の資格を立派に備えているのである。 彼女の英雄性を示す物語は、どこから始めても、恣意的であろうが、ひとまず、二週間前のシアトルに遡るのが良いだろう。
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小島和久は、ルーシーとは、縁もゆかりもない男である。多分、一生、顔を合わせることもなく、どこかで偶然、擦れ違ったとしても、お互いに何とも思わないに違いない。
しかし、追跡可能な範囲では、この物語の発端に相応しい人物である。
彼は、機械メーカーの社員で、今年四十四歳である。五年間の予定のシアトル勤務も、残り一年弱というタイミングで、「話がある」と急に本社から呼ばれ、一時帰国するところだった。理由ははっきりと告げられていない。が、いずれ、人事に関することであり、あれこれ考え出すと気が重かった。それとも、あの話だろうかと、こちらで隠している事柄が幾つか、思い当たらないでもなかった。
午前十一時半発のフライトで、今日は八時半に自宅を出て、タコマ国際空港まで自分で運転をした。妻と中学生の娘は、留守番である。
途中、かつての日系移民たちが「タコマ富士」と呼んで祖国を偲んだというレーニア山を眺め、いつになく感傷的な気分になった。
昨夜は、溜まっていた仕事を終えられず、深夜二時まで起きていた。機内で寝るつもりだったが、急なことで、エコノミー・クラスの真ん中の座席しか取れず、先が思いやられた。
搭乗手続きを早々に済ませ、税関を通ってから、彼は、飛行機が一時間遅れていることを知った。ラウンジを使えないこんな日に限ってと、わざと汚い英語で独り言を言った。搭乗口も変更されており、随分と歩かされた。
トローリー・ケースを引っ張りながら、本社での話によっては、残り一年をそう楽しい気分では過ごせなくなるだろうということを考えた。
ロックが好きで、昔からアメリカ暮らしに憧れていて、赴任してすぐに、一人で、郊外のグリーンウッド・メモリアル・パークにジミ・ヘンドリックスの墓参りに出かけた。
墓石そのものは案外、小さかったが、ドーム型の霊廟に蔽われていて、壁面の肖像画には、無数のキスのあとが残されていた。それを見て、アメリカだ、と感動し、FBで写真をシェアして、日本の昔のバンド仲間に羨ましがられたのが懐かしかった。
恐らく、海外赴任はこれでお終いだろうが、日本の凋落は、外から見ると気が滅入るほどで、駐在員たちとは、酔うといつも「憂国」談義になった。妻も子供も、ここでの生活を気に入っていて、今回の一時帰国に不安な予感を抱いている。
仕事を変えてでも、アメリカに残る方法を考えるべきだろうか。……
搭乗時間まで、まだ二時間半もあり、小島は途中でフードコートに立ち寄った。カフェの前には三組が待っていて、メニューの表示を遠くから眺めつつ、最後尾に並んだ。
すると、大柄の白人の女性が、彼を押しのけるように、無言で割り込んできた。突然のことに面喰らって、「すみません、並んでたんです。」と後ろから声をかけた。女は振り返らなかった。もう一度、言ってみたが、やはり無視された。腹が立ったが、ひょっとすると、耳が不自由なのだろうかと、前に回り込んで、「すみません、僕が並んでたんです。」と身振りを交えて言った。更に一つ前の男性が、驚いて振り返ったが、しかし、彼女は、目を合わそうともしなかった。
こうなると、為す術がなかった。たかがコーヒーの順番くらいと思う余裕もなく、小島は、尋常でなく頭に来た。店員が、このやりとりを見ていたかどうかはわからなかったが、次を呼ばれると、彼女は何事もなく前に進み、一転して柔和な笑顔で会話を始め、クリームがたっぷり乗ったアイスラテを注文した。
搭乗便はその後、遅延の告知を繰り返し、結局、四時間遅れの出発となった。その時間を、独り無言で過ごした小島の憤懣は、疲労も相俟って大変なものだった。しかし、その怒りは、どこか力が入らないような、胸の奥底でいつまでも立ち上がれないような、激しい割に無力なものだった。
機内はさすがに日本人が多く、アナウンスも英語と日本語とで、そのことに安堵している自分に気がついた。
あれは何だったのか? シートベルトのサインが消えると、恐る恐る背もたれを倒し、肘置きに辛うじて触れる程度に肘をかけて目を瞑った。彼女の人格的な問題なのか、機嫌なのか、それともやはり、アジア人として差別されたのか。――わからなかった。それほどのことにさえ、確信を持てない自分の四年間のアメリカ生活を思った。動画でも撮影しながら、もっと強く抗議すべきだったのではないか。今なら幾らでも、その言葉が思い浮かぶのだが。
十一時間のフライトの後、羽田に到着したのは、夕方の七時頃だった。機内ではほとんど眠れず、映画を三本見て、仕事のメールにひたすら返事を書き続けていた。
頭がぼんやりしていて、疲れていたが、それよりも、胸に蟠っていた憤りが、時間をかけて増殖し、血の流れに乗って体の隅々にまで拡がってしまったような感じだった。勿論、熱もなく、どこか具合が悪いというわけでもないので、検疫は、彼がシアトルから厄介な「ストレス」を国内に持ち込もうとしていることなど、知る由もなかった。
小島は、お粗末な機内食のせいで、腹が減ったような、減ってないようなという感じだったが、手荷物受取所を出てから、空港の中の蕎麦屋に向かった。蕎麦と言うより、無性に天ぷらを食べたくなったのだった。
店内は混み合っていて、大きなスーツケースを入口で預け、端のテーブルに着席すると、作務衣にエプロン姿の若い女性店員が注文を取りに来た。
「ビールと天ぷら蕎麦。」
「あ、……すみません、天ぷら蕎麦が終わってしまいまして。」
「そうなの? なんだ、天ぷら蕎麦が喰いたかったのにな。……ま、いいや、じゃあこの鴨せいろ。」
「かしこまりました。少々お待ちください。」
短く黒い髪の、少しおどおどしたような店員を、小島は大丈夫だろうかと見上げた。
ビールは、いつまで経っても出てこなかった。携帯の充電も切れてしまい、イライラしながら、また、考えるつもりもなく、あのタコマ空港での割り込みのことを思い出した。自分を無視した女が、店員と談笑していた表情が頻りに脳裡をちらついた。
痺れを切らして、ビールの催促をしようと、先ほどの店員を呼びかけた時、彼は彼女が、別のテーブルで天ぷら蕎麦の注文を受けているのを目にした。
「すみません、ちょっと。ビールまだ? あと、天ぷら蕎麦、終わったんじゃないの?」
小島は、視線で促しながら尋ねた。
「あ、……えっと、すみません。……」
彼女は、叱られたようにその場に立ち尽くした。
「いや、すみませんじゃなくてさ、あるの、まだ?」
「……少々、お待ちください。」
店員は、急いで厨房に確認に行き、戻ってきた。
「すみません、やっぱりもう終わりだそうです。」
「いや、じゃあ、あっちのお客さんのは?」
「すみません、もう一名様分だったらあったみたいで。」
「ハ? じゃなんで、俺に言ってくれないの? こっちに先に言うべきじゃない?」
店員は、頬を紅潮させて黙ってしまった。小島は、『何なんだ、このボケた店員は?』と呆れながら、自分が、シアトルの空港とは、まったく違った状況で、またしても相手の無言の前に、為す術を失ってしまったのを意識した。そして、今まで経験したことがない類いの頭痛に顔を歪めた。
厨房から、蕎麦を早く運ぶようにと呼ばれて、店員は後ろを気にした。
「……すみません、あちらのお客様に言ってきます。」
「いや、いいよ! 悪いだろう、それも。――ああ、もういい。もういいよ!」
小島は、派手に椅子の音を立てて、出て行くつもりで立ち上がった。しかし彼女は、咄嗟に暴力を振るわれると思った様子で、後ろに飛び退くと、その場で到頭、泣き出してしまった。